携帯小説

「あんた!ケータイ小説ばっかり読んでないで、マンガでも読みなさい!」 - 昆虫亀】でケータイ小説が話題になっていたのでちょっと覚書として。ちなみに、僕はケータイ小説は読んだことがないし、『恋空』も『DeepLove』も読んでませんし、見てもいません。昆虫亀氏がジャンルの特性に関して述べているので、僕はメディアの特性に関してもう少し考えてみたい。
ケータイ小説批判の一つの特徴として、書籍や映画といった別メディアへと移行した際に噴出する、と言う点が挙げられる。もちろん、眼に触れる機会が増えたということもあるが、端的に言うと批判の論旨としては、映画見たら(本読んだら)つまらなかった、だからケータイ小説はつまらないんだ、というもの。つまり内容面が取りざたされ、ケータイ小説が批判的に見られているわけだ。けれども、流通形態の違いが受容にもたらす作用の差異を考慮に入れるのであれば、内容批判とは異なった観点からケータイ小説を考えることが出来るのではないか。そうすることで、ケータイ小説というものを肯定的に考える可能性を示唆できるのではないか。
ポイントは、普段友人や家族から送られてくる日常的なメールの文面を読む携帯の画面上でケータイ小説は読まれる、という点である。あるいは、ブログや仲間内の掲示板を普段読む画面と言い換えても良い。つまり、ケータイ小説を読む経験とは、誰かからの定期的な報告を、メールやブログ、掲示板を通して読む経験と非常に近似しているのだ。次の更新を心待ちにし、物語の進展を断片的に、時間的な段階をおって、携帯の画面を通じて読んでいく経験は、まるで友人からの例えば恋愛報告の経過を見守っているような経験に近いと言える。もともと個々人が仲間内でいつでもどこでも閲覧可能なコミュニティーを作るために利用されていた「魔法のiらんど」が、ケータイ小説の場として中心となっているのがそれを裏付けている*1
このように、ケータイ小説を、携帯というメディアに着目してみると、知人との繋がりが確認される場として携帯の小さな液晶画面と、断片化されて時間差を伴って受信する(定期的に更新され、一気に全部読めない)という、「場所性」と「時間性」に関わる二点が特徴として指摘できる。この特徴によって、ケータイ小説は、読者にとって、友人同士の間で交わされるメールと類するような、独特な親密さを伴ったリアリティを持ちうるのである。普段読者層が使用しているであろうギャル文字が多いとされるのも、この親密さを効果的にする手段の一つとして指摘できるだろう。
ところがケータイ小説の文面のみが書籍化され、あるいは内容が映画化されることで、指摘したケータイ小説の特殊性は致命的に損なわれてしまう。物語の内容は、交話機能的な場である携帯の液晶画面から引き剥がされ、単純に情報を指示する場である紙面やスクリーンに移される。また、定期的な報告だった断片的な物語の集積は、リニアに一つの流れを形成する単一の物語へと変容していく。携帯では物語世界での時間は、断片化され、一定の期間を置いて配信される。それゆえ、各断片に読者を引き付けるための展開を必要とするのだ。それが書籍や映画というメディアに移行することで、各断片間の時間的な空白が詰められてしまい、物語全体を通しての展開が強引に見えてしまうこともあるだろう。ケータイ小説と書籍、映画では、読者の身体的な感覚がまったく異なるのだ。
このように、携帯と書籍と映画といったメディアの違いを考えれば、その受容形態が読者に及ぼす作用は大きくことなることがわかる。本来携帯を前提に書かれた小説を別メディアに移行することで生じる無理が此処に指摘できるのだ。つまり、ケータイ小説の不幸は書籍化され、映画化されたことにあるのではないだろうか。もちろん繰り返しになるが、僕はケータイ小説というものを読んでいないので、内容が本当につまらないのであればそれはそれで問題だけれども、ケータイ小説だから駄目、というのは早急に過ぎるとは思う。ひとまず、携帯メディアと書籍メディアと、映画メディアの差異を考えるための覚書として。

*1:ちなみに10年近く前僕も利用したこともある