父親たちの星条旗

父親たちの星条旗」を見る。新しいタイプの戦争映画なのではないだろうか。非常に良く考えられた映画だと思う。六人のアメリカ兵が硫黄島の山頂で星条旗を掲げる有名な写真が主題となっている。悲劇悲哀を殊更強調するでもなく、反戦を声高に訴えるでもなく、目立った主人公もいない。ハリウッド映画にしては娯楽性が無く単調な印象を受けてしまう。
プロパガンダとして利用されるこのイメージを軸に、被写体となった三人の兵士が「英雄」として神話化され消費されていく様を淡々と描いている。時系列を意図的に混乱させ、硫黄島での出来事、「英雄」としてアメリカに帰国した三人がプロパガンダとして祭り上げられる様、三人のうちの一人の息子が当時のことを取材する現代、といった三つの時間が複雑にモンタージュされる。基本的には、硫黄島の土色の戦場と、華やかなアメリカが対比的に描かれ、飛び散る火花と「英雄」を撮影するストロボが二つの時間を繋ぐ役割を果たすのだが、個々の時制も前後関係が有耶無耶なまま進行していく。
また、登場人物も多く、個人のキャラクターを描き分けるでもないので、非常にわかりにくい。この「わかりにくさ」や、「娯楽性の欠如」こそがこの映画の一つの特徴である。戦争は、様々に表象されることで、様々なメッセージを発信する為の舞台として利用されてきた。時に戦意高揚の為に、時に反戦平和のメッセージの為に。けれどもこの映画ではそういったメッセージは無い。
星条旗掲揚という映画内現実が、写真になり、絵画になり、演劇になり、巨大彫刻としてモニュメントとなっていくプロセス、つまり戦争のイメージが神話化され消費されていくプロセスをこの映画は詳らかに描いていく。写真を基点として描かれるプロセスの中で、「戦争」が担う様々な「意味」が茶番に過ぎないことを丹念に描いていくのだ。
この映画は、戦争にまとわりつく神話を剥ぎ取っていくプロセスによって、戦争にメッセージなど無いことを伝えてくれるリアリズム映画なのである。この映画は、戦争が物語られ神話化されていく為の受け皿として写真がいかに効果的なメディアであるかということを詳らかに描き出している。「英雄」を欲するものには英雄を与え、戦死した息子の勇姿を欲する親にはその姿を与えてくれるのだ。写真は「あるがままの現実」を写すのではなく、見る者が見たいと思うものを見せてくれるに過ぎないのである。
エンドロールには、実際の太平洋戦時下における硫黄島戦で撮影された写真が、「英雄」化された実際の三人の兵士の写真と共にスライドショーで提示される。そしてエンドロールの最後には、再び、星条旗を掲揚する米軍兵の写真が写され映画が終わる。その時、この写真は疑いの目で眺められるだろう。