連想ゲーム的飛躍

久しぶりに「千年女優」を見る。

千年女優 [DVD]

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「現在」、「映画という虚構」、そして「過去」が重ね合わされる。三色団子のようにそれらを貫くのは主人公、千代子の恋。それらはまさに形式的な類似によって統合されている。例えば泣きボクロ。
うちの映画館が閉館したとき、思い出したのは「ニューシネマパラダイス」ではなく、実はこの映画「千年女優」だった。

ドキュメンタリーを撮影するディレクターが、引退した女優千代子が住む家に向かうシークエンスで、ある小さなトンネルを抜けるシーンがある。このトンネルは大山崎山荘美術館に行く途中にある小さなトンネルと非常によく似ている。そう考える理由はそれだけではない。千代子は睡蓮を好み、そしてそれゆえ千代子のファンであるディレクターは自らの会社にロータス(Lotus)と名づけている。そしてもちろん大山崎山荘美術館の、安藤忠雄が建てた新館には、モネの睡蓮が飾られている。

この映画で物語の主人公である千代子は「現在・現実」と、「過去・虚構」の狭間をいともたやすくすり抜ける。そして劇中劇として演じられる映画は、30年代40年代〜50年代にかけての映画をなぞっている。それゆえ映画を見るものもまたその狭間を越えてしまいそうになる。特に映画館で働いたし、「鍵」にまつわる(しかもまた形も良く似ている)エピソードがあったし、山崎山荘美術館も思い出したりするから尚更だ。
現実と虚構、リアルとバーチャルリアリティと言い換えても良い。現実と夢でもよし。

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [DVD]

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うる星やつら2ビューティフルドリーマー」では、その曖昧さをテーマとしている。「虚構」として「実在」している世界。終わらない学園祭前日を永遠に生き続ける。
イノセンス」でもまた「現実」と「虚構」の狭間の曖昧さはより繊細に吟味される。しかし、キムの屋敷のシークエンスでバトーはその狭間には飲み込まれない。曖昧さに捕らわれ無限にループするトグサを救い出す。
イノセンス スタンダード版 [DVD]

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ビューティフルドリーマー」との間にある差異。おそらくそこには現実/虚構という対立に、人間/人形という対立項が加わったいるからなのだろうか。
「終わらない学園祭」は村上隆によるGEISAI-4のタイトルだが、「悪い場所」(椹木野衣)に生きる「大人(成熟した「文化」)になりきれない子供」の祭り=学園祭という村上の考えが反映されている。
「現在・現実」と「過去・虚構」の曖昧さは、写真経験、特にドキュメンタリー写真においても重要な契機となって見るものの経験に迫ってくる。「それはかつてあった」というバルトの言葉を引くまでも無いかもしれないが、写真は「過去」の出来事を「現実」として「現在」の読者が経験するメディアである。しかしそれはいうまでもなく「虚構」でもあるのだ。
映画館閉館前日はまさに「ビューティフルドリーマー」的状態だった。永遠に続く学園祭前日。千代子が運命の糸車によって狂気のような恋に向かって走り続けるように。
こんなこと夜中に書いてるからロマンティストって言われるんだ。過去と現在の距離を志向するのがノスタルジーなら、虚構と現実の距離を志向するのがロマンティストなのか。