文化博物館

展示は、京都が山に囲まれ、その中心を川が流れ、南には池がある、という風水に応じて選ばれた土地であることを示すホログラフィで始まる。そして、平安文化、武士の時代、町人文化といった変遷を経て都市としての京都を示す前半部で第1部が終わる。そして通路を挟んだ後半部は、近代化し現代へ至るまでの京都の歴史が並ぶ。興味深いのが個々の展示方法。ひな壇上の台の一番下の段には、絵巻や屏風の写しが解説と共に展示される。その上の段には絵に関連するゆかりの品や模型が置かれる。展示を見るために下げた目線を挙げ、壁面に目をやると、現代の伝統工芸作家が作成した工芸作品が展示されている。鑑賞者は、導線に導かれ歩みを進めながら、何も無い盆地から都市が興るまでを、そして過去を表象する個々の展示を見ながら、常に現代との繋がりを確認していくこととなる。こうして現代の京都と、「古都」が一つの繋がりの中にあることを表象していると言える。

サイトスペシフィック

id:BunMay:20061203#p1で報告されている(id:Sais:20061202#p1でもいずれアップされるでしょう)photographers' galleryで番外編講座、ビエンナーレ報告を読んで思ったこと。僕も先日、釜山ビエンナーレと光州ビエンナーレを見てきたわけだけれど、印象としては同じようなものだ。

でも、笠原さんがその場で指摘していたように、セビリアの展示は美術館でやる企画展と殆ど大差ないと思う。セビリアという土地がカトリックとイスラムの両方に関係があるという土地柄は確かに、展示に大きく影響している(after 9/11がテーマの一つになっている)と思うが、それはセビリアでしかできないものなのかどうかはまだよく分からない。宗教が混交している土地であれば、どこでも置き換え可能なのかどうか。

同じような疑問を韓国で感じた。自分が今何処にいるのかということは作品鑑賞中はあまり意識に上らなかったし、むしろ多国籍の作家をホワイトキューブという無国籍的な場で見ていることにクラクラしてきた。
一方で、同時にsite-specificという言葉がかつての使われ方から変容しているのではないだろうかと考えてしまう。そもそもsite-specificとは、場からは独立した、芸術作品の自律性を良しとするモダニズム的な倫理を乗り越える戦略だった。その時site-specificという語はあくまでも作品と場の形式における関係が主だった。その場と作品とに物理的に不可分な関係を結ぶこと、それがランドアートでありインスタレーションだった。けれども、id:BunMay君の報告を読む限り、site-specificは意味のレベルに拡張され理解されている気がする。その土地が持つ歴史的文化的な背景と、その土地に展示された作品の持つ性質との間の関係性が説得力のあるものかどうかを見極めようとする態度である。意味のレベルにまで拡張されたsite-specificという概念はあまり意味が無い気がする。極端な話、ある作品をその場所で見るという経験は一回的なものであり、あらゆる観賞経験はsite-specificたりえてしまう。一つの作品が別の場所に移動されるたびに、その場所と新たな関係性を構築し、新たな意味を生成してしまう契機を孕んでいる。特に、歴史や民族、記憶といったテーマで作成された作品は、場所場所で様々に解釈され新たな意味を生成し続けるだろう。
そもそもビエンナーレ経験というものは、ただ作品を観賞するだけでなく、そこまでの旅の過程、体調や気温、食事、同伴者までをも内包した経験だと思う。はるばる国を越えてその土地に足を運んだ観賞者はどうしてもsite-specificな経験を求めてしまう。それは異文化を知りたいという欲望、あるいはお土産を買ったり名産品を求める欲望と同じようなものなのかもしれないし、○○ビエンナーレや○○県立美術館といった頭に地名を付いてしまっていることが要請するのかもしれない。
果たしてsite-specificという枠組みがビエンナーレを考える際の枠組みとして適切なものなのか。ヴェネチアビエンナーレをsite-specificなものとして考えることというのはあまり無いだろう(確認はしてないけど)。こういったsite-specificといった枠組みが非欧米圏のビエンナーレに頻繁に適応されてしまっているような印象を受けるのだが、その印象は僕の思い込みなのだろうか。
どうでも良い話だけれど、ホワイトキューブという無国籍的などこでもない場所という「site」とwebsiteの「site」って似てるような気がする。

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itmsでやっと購入。ずっと買おうと思って忘れてた。