都路華香展

26日のことだけれども、以前行きそびれた都路華香展を京都国立近代美術館で見てきた。木々が色づく時期、京都は人で溢れるにもかかわらず、館内はあまり人が多く入っていなかったのが少し寂しい。都路華香は幸野楳嶺門下で学び、いわゆる楳嶺門下四天王(勇ましいなぁ…)の一人。繊細な筆遣いをしていると思ったら、大胆な構図を用いたり、思い切った簡略化を施したりと、多様な画風を見れて、飽きない。中でも雨や波をしつこいまでに線で表現しようと言う執着心は、見るものをクラクラさせる。常設展示の写真部屋では、ヤナギミワと澤田知子。でっかい澤田さんとちっちゃい澤田さんとエレベーターガール。

日豪写真シンポ

その前日25日には、シンポジウム、「日豪交流年2006記念シンポジウム デジタル時代の写真/映像の課題」を聞きに大阪電気通信大学へ。オーストラリアの現代写真と言われてもピンと来なかったのだけれども、非常にたくさんの作品を見せていただけたのは良かった。惜しむらくは、メインイベントとも言えるパネルディスカッションが時間の関係上、非常に中途半端に終わってしまったのが残念。ただ、気になったのはオーストラリア写真センタ館長のアレスダー・フォスター氏の写真の語り方。ジェンダー、エスニシティ、ポストコロニアル、サブカルチャー云々、といった欧米圏における批評言語が先にあり、それを対象に当てはめていくと言うスタンスにこだわっておられたようだ。それゆえ、コンセプトよりもそのイメージの機知性や妙技を前面に押し出し紹介された、日本の(関西の)写真家による作品については沈黙せざるを得ない。むしろ、誤解であってもそこから生じる解釈の差異から対話を紡ぎあげていったほうが、意義があったのではないだろうか。

高嶺氏と。

そして昨日、京大での高嶺格を招く会にお邪魔する。作品としては≪God Bless America≫≪在日の恋人≫≪木村さん≫の三点。以前、同志社で高嶺氏の公開講座をやって、その際にざっと後期(ダムタイプ以降)の作品は拝見させていただいていたので、今回で見るのは二回目。民族的、性的、身体的な緊張感を何かしらのアプローチを加えることによって乾いた笑いに代える契機が高嶺さんの作品を通して散見されるな、という感想。その後の飲み会で、高嶺氏を交えた≪木村さん≫におけるプライヴァシーの話が興味深かった。「私写真」とか「私的ドキュメンタリー」を考えるヒントになるかも。