良知暁『sites』
良知暁さんから、展覧会のお知らせを頂きました。
良知暁『sites』
- 会期:2010.07.05 - 07.17
- 会場:ギャラリー現
- 開廊時間:月-金 11:00-19:0 ||| 土 11:30-17:30
関連イベント
- レセプション:2010.07.05 17:00-
- トークイベント:2010.07.16 18:00 -
- "the photographic in, or as, sites || 良知暁 x 冨井大裕 x α
会場
- 壁ぎわ:http://www.kabegiwa.com/
- ギャラリー現
- 東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F
- T-EL&FAX 03-3561-6869
『SITE ZERO/ZERO SITE』No.3_トーク・イヴェント
以下のイベントの告知をいただきました。
この度、イメージ人類学とヴァナキュラー文化論の交点をめぐって写真――映画――絵画――メディア――建築――考現学――人類学――認知考古学等からのアプローチを行なった「特集=ヴァナキュラー・イメージの人類学」を刊行いたしました。
この期に合わせ、現在行なわれる写真論が、これまでの芸術理解についてのパースペクティヴを大きく変えつつある状況を、小誌特集企画者の門林岳史氏、気鋭の写真批評家ジェフリー・バッチェンの仕事を紹介する前川修氏、佐藤守弘氏、岩城覚久氏の4名に語っていただきます。
- 日 時:2010年6月27日(日)15 : 00-17 : 00
- 会 場:MEDIA SHOP(http://www.media-shop.co.jp/ 京都市中京区大黒町44VOXビル1F TEL: 075-255-0783)
- ゲスト:
- 入場料:500円
※ 約30〜40名様にお入りいただける会場が満席となり次第、ご入場を打ち切りとさせていただきますことをご了承ください。
表象・流通・蒐集
6月12日に以下の研究会が同志社で開催されます。
第3回「文化遺産としての大衆的イメージ」公開講演会
表象・流通・蒐集--近代日本の視覚文化/物質文化を再考する
- 日時 2010年6月12日(土) 13:00〜
- 会場 同志社大学今出川キャンパス 至誠館2番教室(アクセス/キャンパス・マップ)
- 主催 共同研究「文化遺産としての大衆的イメージ——近代日本における視覚文化の美学美術史学的研究」
- (研究代表者:金田千秋〔筑波大学大学院教授〕)
- 後援 大正イマジュリィ学会
【website】
私たちは、モノに取り囲まれ、モノを使用して生きている。ただし、モノはただあるだけではない。モノは商品として〈流通〉し、時には〈蒐集〉の対象となる。そればかりではない。モノは言説やイメージによって〈表象〉され、その表象もまた商品として〈流通〉し、時には〈蒐集〉の対象となる。私たちが自らの人生を生きているように、モノもまたさまざまなコンテクストに再布置されることによって、その生を生きているわけである。近代日本――19世紀の終りから20世紀の前半――におけるさまざまなモノと表象――鉄道車輌、家具、絵画、仏像、納札――の生を追うことによって、マスカルチャー勃興期における視覚文化と物質文化を再考すること、それが本講演会の課題である。
プログラム
- 12:30 開場
- 13:00 趣旨説明 岸 文和
- 発表1 佐藤 守弘「鉄の夢――近代日本における鉄道の視覚文化」
- 発表2 ジョルダン・サンド「アジア植民地における家具と立ち居振る舞い」
- 発表3 ミカエル・リュケン「化物絵としての《麗子像》」
- 発表4 鈴木 廣之「仏像の『近代』――鎌倉大仏の行方」
- 発表5 ヘンリー・スミス「お札博士――フレデリック・スタールと蒐集の人類学」
- 17:40 総合討議
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- 発表は日本語で行われます。
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判定の記号論
記号学会、判定の記号論@神戸大学へ。撮影等のお手伝いをさせていただきながら、裁判員と判定の話を聞く。今回の話を聞いていてわかったのは、判定を考える際の要諦とは、判定結果の妥当性ではなく、何が判定結果に説得力を与えるのかという点であること。例えばそれは「証言」であったり「科学」であったりする。裁判員制度の事例、およびその成立過程において興味深いのは、それが「素人」、「一般人」、「普通の人」であること。つまり、限られた専門家ではなく、「普通の人」の集合知こそが、判定に説得力を付与すると考えられている。
議論を聞いていて思ったのは、こうしたパラダイムが様々な判定において基準となっているのではないかということ。事業仕訳においても「一般」企業の意識が基準として持ち出されることがままあるし、某知事が「民間企業であれば…」といった発言を行うのもよく聞く。あるいはスポーツ判定の場合も、例えばフィギア・スケートにおいて、眼訊きである審判員の判定ではなく、ネット上における「普通の人」の集合知的判定が肯定的に読まれ反復される。あるいは報道番組などで、ある政治的判断に対する「普通の人」のコメントを報じたりすることも同様に考えることが出来るかもしれない。裁判員制度は、そうした「普通の人」を「市民」と名指すことで、「市民」という主体を析出する、いわば「市民」生成装置なのではないか、というHさんの指摘は「なるほど」と思った。つまり、「普通の人」を基準とする判定の力学は、「普通の人」と「非=普通の人」を仕訳けることでもある。以上、覚書。
マイ・フェイバリット展
- 「マイ・フェイバリット――とある美術の検索目録/所蔵作品から」(@MOMAK)
実際に行ったのは一月近く前だけれども、何となく感想というか覚書というか自分用メモを簡単に。
まず入ってすぐに示されるのが、デュシャンの作品。《泉》をはじめとするレディ・メイド作品は、さしあたり近代的な美術制度に対する境界侵犯と理解することが出来る。また、この部屋で目に付くのが、窓をモチーフにした同じくデュシャン作品や、ローズ・セラヴィに扮するデュシャンに扮する森村泰昌。
次の部屋以降、高嶺さんの作品は人種・国家間・ジェンダーの越境をモチーフにしている。シュトルートの作品の一つは、美術館でジェリコー《メデュース号の遭難》を観賞する人々を撮影している。《メデュース号の遭難》内の対角線構図とフォーカスを効果的に用い、イメージに描かれている世界に没入(こちらから向こうへと「越境」)して行く作品観賞経験が示され、宗教画が展示された展示室を撮影したもう一つの作品では、宗教画の作品世界からこちら側へと働きかける観賞経験が示される。この二つの作品をオリヴィエ・リションの作品が橋渡しをする。あるいは、野島康三の《仏手柑》と森村泰昌《フィンガー・シュトロン》を並置することで間テクスト性を提示したり。ちなみに、その隣に展示されたジェリーN・ユールズマンの作品に、それとよく似た「手」が写っていることも見逃せない。
ローター・バウムガルテンの写真作品は、美術館の外に展示された作品を美術館の中に展示するという仕組みである。ジェリコーの絵画がそうであり、またシュトルートの写真がそうであったように、「窓」としてのイメージである。クシシュトフ・ヴォディチコはプロジェクターによって「窓」を作る。「窓」の向こう側に「移民」達の姿が透けて見え、彼らの語りが会場に響く。本作は、一方で基本的に窓が不在であるホワイト・キューブに「窓」を穿つインスタレーションであり、他方で移民というマイノリティがマジョリティに対して匿名性を担保としながら越境的に発言を行う社会的なコンセプトに動機づけられた作品でもある。他にもジャンダー(シャーマンの《Untitled film still》に扮する森村[男])、セルフ・アイデンティティ(澤田知子)等などを相対化し穿つような作品が並ぶ。
階を上がれば作品概念をめぐって作品が展示される。「下絵」が壁に貼り付けられているのに対して「作品」がショーケースに入れて展示されるなど。大量の雑誌資料などが展示されている。また、奥のショーケースは閉じられており、その横に金庫の鍵を撮影した新即物主義的な写真を展示し収蔵庫を象徴的に示している。つまり、公開すべき作品と研究用の資料とを区分することの困難さ/恣意性を観賞者意識させる展示である。次は複製物と作品。他は被写体の特徴ゆえに「作品」足りえる(であろう)都築響一の《着倒れ方丈記》と、グレート・マスターの「作品」を対象化させたりもしている。
さて、こう見てみると第一展示室において既に、本展のキーコンセプトが提示されていたことがわかる。それは、「同一性に窓を開けることで、越境を行うこと」とでも言えようか。そもそも、京都国立近代美術館という公的機関が「マイ・フェイバリット」と私性を謳い、「とある美術の検索目録」という副題は「とある魔術の禁書目録」という別コンテンツを参照していることからもわかるように、展覧会名からしてすでに、近代美術館の外部へと越境することを指向している。