マイ・フェイバリット展

  • 「マイ・フェイバリット――とある美術の検索目録/所蔵作品から」(@MOMAK)

実際に行ったのは一月近く前だけれども、何となく感想というか覚書というか自分用メモを簡単に。
まず入ってすぐに示されるのが、デュシャンの作品。《泉》をはじめとするレディ・メイド作品は、さしあたり近代的な美術制度に対する境界侵犯と理解することが出来る。また、この部屋で目に付くのが、窓をモチーフにした同じくデュシャン作品や、ローズ・セラヴィに扮するデュシャンに扮する森村泰昌
次の部屋以降、高嶺さんの作品は人種・国家間・ジェンダーの越境をモチーフにしている。シュトルートの作品の一つは、美術館でジェリコー《メデュース号の遭難》を観賞する人々を撮影している。《メデュース号の遭難》内の対角線構図とフォーカスを効果的に用い、イメージに描かれている世界に没入(こちらから向こうへと「越境」)して行く作品観賞経験が示され、宗教画が展示された展示室を撮影したもう一つの作品では、宗教画の作品世界からこちら側へと働きかける観賞経験が示される。この二つの作品をオリヴィエ・リションの作品が橋渡しをする。あるいは、野島康三の《仏手柑》と森村泰昌《フィンガー・シュトロン》を並置することで間テクスト性を提示したり。ちなみに、その隣に展示されたジェリーN・ユールズマンの作品に、それとよく似た「手」が写っていることも見逃せない。
ローター・バウムガルテンの写真作品は、美術館の外に展示された作品を美術館の中に展示するという仕組みである。ジェリコーの絵画がそうであり、またシュトルートの写真がそうであったように、「窓」としてのイメージである。クシシュトフ・ヴォディチコはプロジェクターによって「窓」を作る。「窓」の向こう側に「移民」達の姿が透けて見え、彼らの語りが会場に響く。本作は、一方で基本的に窓が不在であるホワイト・キューブに「窓」を穿つインスタレーションであり、他方で移民というマイノリティがマジョリティに対して匿名性を担保としながら越境的に発言を行う社会的なコンセプトに動機づけられた作品でもある。他にもジャンダー(シャーマンの《Untitled film still》に扮する森村[男])、セルフ・アイデンティティ(澤田知子)等などを相対化し穿つような作品が並ぶ。
階を上がれば作品概念をめぐって作品が展示される。「下絵」が壁に貼り付けられているのに対して「作品」がショーケースに入れて展示されるなど。大量の雑誌資料などが展示されている。また、奥のショーケースは閉じられており、その横に金庫の鍵を撮影した新即物主義的な写真を展示し収蔵庫を象徴的に示している。つまり、公開すべき作品と研究用の資料とを区分することの困難さ/恣意性を観賞者意識させる展示である。次は複製物と作品。他は被写体の特徴ゆえに「作品」足りえる(であろう)都築響一の《着倒れ方丈記》と、グレート・マスターの「作品」を対象化させたりもしている。
さて、こう見てみると第一展示室において既に、本展のキーコンセプトが提示されていたことがわかる。それは、「同一性に窓を開けることで、越境を行うこと」とでも言えようか。そもそも、京都国立近代美術館という公的機関が「マイ・フェイバリット」と私性を謳い、「とある美術の検索目録」という副題は「とある魔術の禁書目録」という別コンテンツを参照していることからもわかるように、展覧会名からしてすでに、近代美術館の外部へと越境することを指向している。