D/A

研究会以降、自分の論文、卒論指導、卒論提出受付、名古屋行きと経てやっと落ち着いてきた。研究会を振り返っておく。研究会一本目の発表はデジタル写真に関するもの。前半部においてデジタル写真とアナログ写真との間の区別が恣意的であることを技術の側面から解き明かしているにも関わらず、後半部において、アナログデジタルの対立が前提とされていて、そこがわかりにくかった。というか、デジタル/アナログという対立はどういった点から見た対立なのだろうか?同じところもあるし違うところもある。それを押しなべてデジタル/アナログという対立で考えるのは無理がある。それは生産、流通、受容というシチュエーションでもあるし、また写真家の態度でもある。技術的にD/Aの対立が曖昧なのであれば、現在行われている議論と言うのはあくまでも概念レベルでしかない。つまり写真に何を期待するのかに応じて展開されている議論なのではないだろうか。
一方で、写真におけるデジタル/アナログという対立を考えるということ、もちろんそれも大切なのだけれど、技術面におけるデジタル化の一つの側面として、絵も写真も音楽も文学も全てを押しなべて同じ形式へと変換するということがある。便宜的に以前のカテゴリーに基づき絵とか写真とか言っているけれど。だから写真の中だけでD/Aを議論するだけではなく、もう少し大きな枠組みを考える必要もあるのではないか。アナログとデジタルの決定的な差異って写真の中だけで考えているだけではわからない面もある。
id:yasuhamu:20071219くんところで「写真は死んだ」の話が少し。Digital/Analogue, Dead/Alive。ちなみにミッチェルだけでなく、写真に別れを告げようとする人は多い。「写真よさようなら」、「まず写真という言葉を無くせ」、「アデューX」、と。そういった写真論(的行為)の中で示唆されている断絶みたいなものを読み込んでいくことは必要だと思う。技術面だけでなく、写真に何が期待されているのかという点にも目を向けるなら。恐らくその背後にはデジタルではなく、「広告写真(イメージ)」があるのだろう。
ベッヒャーの話は前半と後半の繋ぎがやっぱりよくわからなかった。あの図を使うことが自己目的化してしまっているような気がしないでもない。質問でも聞いたのだけれども、どうしても戦中期のプロパガンダがどう関わってくるのかが気になるところ。また、ベッヒャー(派)というものが常に参照項としてあると言うのであれば、そういった参照項をはずしたときに見えてくるグルスキー写真の魅力とは、と考えてみると面白いかもしれない。
「アトラクションの映画」に関して。僕の性分なのかどうか、議論の枠組みのための議論に終始するとどうも居心地が悪い。観客とスクリーンとの新たな関係を論じる枠組みを作り出すことが何故必要とされたのかが発表を聞いている限りでは結局良くわからなかった。ひたすら観念的な議論は何にでも当てはまってしまうので注意が必要な気がする。