卒論への道

立石大河亜の回顧展、メタモルフォーゼタイガーの展覧会図録においてキュレーションにも携わった天野一夫氏が記すには、(以下引用)

立石の絵画作品は、具体的なイメージが画面を集積しているが、書き満たされてはいれども、われわれはそこに完結した世界なりメッセージを受け取ったふりをしながらも、たちどころに全体がすり抜けていくような感覚を味わうことになる。視覚的な欲求を募らせて読み込むために画面上を静止することなく回遊することになるが、しかしそこに明確な「意味」を見出すことなく、むしろ意味の失効<ナンセンス>を深く味わされることになる。といっても画面の余白を「読む」過程で味わったはずの魅惑だけは確かに受け取っているのである。

引用終わり。
即ち、天野氏は立石の作品における形式と内容の関係を語る上で「視覚の回遊」(作品の構図やコラージュ的に転用された既存のイメージが、見るもののまなざしを誘導するように配されている)そして「ナンセンス」という二つのキーワードを基にしている。
「意味の深度を持たない表彰の永久運動」など。
しかし、その言説において天野氏が言うところのナンセンスという概念に関しては考察されていないのが事実。単に<意味の失効>という意味において使用するのみにとどまっている。おそらくこの言説が展覧会図録という媒体を介するものであるゆえであろう。つまり展覧会鑑賞者の経験に多くを頼っているのではないだろうか。
なるほど確かに一見立石の絵画(のみならず、漫画、絵本)はナンセンスと形容することができるかもしれない。一枚の絵画なりを通じて、何らかの明確なメッセージを読み解くことは初期の作品を除けば極めて少ない。事実、立石を形容する語として過去多く利用されてきた。しかしこのナンセンスという語によって片付けられ隠蔽されてしまっているものとはいったい何なのだろうか。
ナンセンス
鑑賞者の想像力と現実認識のあり方しだいで、ナンセンスは単なる<意味の失効><意味の欠落>から<意味の略奪>へと転化し、日常的な意味と価値の体系を疑い拒むというアクティブな性質を持つことになり、常識(コモンセンス)に取って代わる新たな意味体系を提示するに至る。また、ナンセンスというものが現れるときそこに対するものとして自ずと立ち上ってくるのは意味=センスの質である。立石の絵画においてこのセンスにあたるものは、美術や漫画を成立せしめている、ないしは常識として前提として基盤となっている価値観、制度である。たとえば遠近法であったり、記号的にイメージを読み解くための文法であったり。
また例えばここ日本において、絵画を絵画たらしめ、漫画や絵本と区別しえているのはいうまでもなく歴史ではなく、形式であろう。即ち、キャンバスという支持体に描かれれば油絵であるし、和紙に筆で描かれれば日本画(時には水墨画)であるし、本という形にコマがあれば漫画である、といった様である。このようなジャンルを規定することの形骸化を告発するためか、立石は同モチーフをことなった「ジャンル」に登場させるといったやり方を多く見せる。漫画出版後、ミラノに渡ってから描き始めたコマ割り絵画などはその典型である。


以下覚書

  • 二重にコード化されている。つまり美術愛好家と美術に疎いもの。
  • チャールズ・サンダース・パースの言うところのイコン的記号。
  • 間テキスト性
  • 天野氏の言説を踏まえての形式の考察。→既存のイメージの多様。