写真展

とりあえずのリスト。

ボタニカルとは植物学的という意味で、植物の性格などを的確に表現した細密画をボタニカル・アートと呼んでいます。日本でボタニカル・アートが開花したのは、意外にも江戸時代のことで、文化・文政・天保(1804〜44)の40年間に多くの作家を輩出しました。作家のほとんどは大名、旗本で、中には医師もいました。残された作品は当時の日本の植物を知る上で大変貴重なものです。ボタニカル・アートを写真で表現できれば、より正確な情報を伝達できることは容易に想像できます。しかし、フィルムによる撮影では多くの問題があり、実現しませんでした。2003年、デジタルカメラとその周辺機器の発達によって、ようやく写真によるボタニカル・アートの製作が可能になりました。撮影方法、アートとしての表現方法の研究が進み、2003年12月頃には作品として鑑賞に堪えられるレベルに達してきました。この技法をボタニカル・フォトと命名しました。ボタニカル・フォトの大きな特徴は、植物の形、色を最も正確に伝達できることです。よく似た種の違いを同一画面で比較して見ることも容易です。この特徴は植物図鑑への応用が考えられています。また、一枚の画面で、四季の姿を同時に表現することも容易です。たとえば紅葉を背景に春の花が咲くという、これまでのフィルム写真では考えられなかった新しい感覚の世界が広がります。これは鑑賞用のアートとしての可能性が模索されています。このようにボタニカル・フォトは新しいジャンルの表現技法として誕生しました。

  • 開 催 期 間 2005年4月1日(金)〜5月8日(日)
  • 開 催 場 所 国立科学博物館
  • 開 館 時 間 午前9時00分〜午後5時
  • 主      催 国立科学博物館
  • 撮影:写真家 宮 誠而(みやせいじ)

「時代を切り開くまなざし-木村伊兵衛写真賞の30年-1975 - 2005」 木村伊兵衛写真賞(朝日新聞社主催)は、戦前・戦後を通じ、日本の写真文化に貢献した写真家・木村伊兵衛の業績を顕彰して1975年に設立され、厳正な審査のもとに時代を切り開く若手の写真家が選ばれてきました。30年記念となる本展では、最新受賞者も含むすべての受賞写真家36人の仕事を紹介します。企画展示室と3つのギャラリーを使用し、展示作品数約400点に及ぶ大規模な写真展です。また、昨年、フランスで約30年ぶりに発表され話題となった、パリで木村伊兵衛が撮影したカラー写真も併せて公開します。

クリストファー・ルドクィスト展 2005.4.5tue - 10sun neutron 5F & B1 gallery この度ご紹介するのは、スウェーデン出身で現在はロンドンにて活動しているフォトグラファ−であるクリストファー。彼は最近までずっと地元のスウェーデンに拠点を構えて活動していたため、その写真スタイルは基本的にヨーロッパモダンなテイストを踏襲しているように感じる。この誌面でご紹介し切れないのが残念だが、彼の撮影のモチーフは大きく分けて「ポートレート」「建築、インテリア」「都会あるいは郊外の風景」の三つに分けることができるが、それぞれが相互的に関わっており、クールなのに何処か暖かい視線は常に公平に向けられている。ヨーロッパ、特に北欧は建築好きにとっても垂涎の地であるように、モダン・アーキテクチャーの完成度は高く見所は多い。寒い冬の時期、多くの人々は屋内で楽しむ機会が多い為、自然と建造物は大きく、内面では柔らかく人々を包み込み、デザインにおいては北欧の歴史を反映してセンス良く、人間と密接に存在しているのではないかと推測する。日本において建築やデザインが単なる流行と捉われがちなのとは対照的に、かの地では無機質なモダン建築に、暖かな血が通っているかのように。クリストファーの写真にもそのような温かみが随所に感じられる。  NYでの2002年の発表「HOME TOWN」(今回、5階ギャラリーで再現)を見ると、郊外の住宅地ならではの閉塞感と同時に言葉を必要としない安心感が同居している。HOMETOWNは同時代の多くの写真家が目を向ける被写体なのだが、彼にとっても自分の出発点として、また常に身の回りに視線を向ける写真家として消化しておかなければいけないものだったのであろう。そしてそこから世界へと羽ばたいていく過程において、目覚ましい活躍を見せている。彼の妻が日本人であることもあって、もちろん日本に対する興味も尽きない。今回、地下で発表するのは私と彼が共に選んだ「日本人は普段見過ごしてしまう日本、そして当たり前の光景」である。大判の10枚のプリントに焼かれる光景はまぎれもなく日本のありふれた光景でありながら、私たちにとっては舞台セットのように「出来過ぎた」印象を与えたり、リアリティーの欠如を感じたりするかも知れない。これは外国産の映画に登場する日本に対する違和感とは少し違う。それらは明らかにまがい物であり、パロディーであるのに対しクリストファーが見せるのは彼がスウェーデンをはじめ世界の各地でするのと同様に建築を見つめ、人間を観察し、そのありのままの佇まいをカメラに収める行為である。そこには何のギミックも無いのにクールなデザインセンスが発揮され、そこに優しい眼差しが同居する。日本で言えばホンマタカシが近いのだろうか。日本のように「写真」におけるコマーシャルとアートの境界がそれほどはっきりと分れていないヨーロッパでは、撮影者自身も自分のスタイルを過剰に意識することなく、ありのままの写真を撮る事が出来るのだろう。極めて硬質なのに、力が抜けている。オフィスの片隅で煙草を片手にポーズを決めるサラリーマンのオヤジ達が、ここまで格好よく見えていいのだろうか?もちろん、良いではないか。何故だか、私たちも日本が好きになる写真なのである。