写真の語りにくさ

先週末、米沢女子短期大学にて開催された記号学会に行ってきました。土曜日の夜に米沢着。原稿が滞ってしまってて残念ながら初日の池田朗子さんと石内都さんのトークは聞けなかった。
さて、日曜日は原稿投稿のため、郵便局に駆け込んでから米沢短大へ。10時からアメリカの分析哲学者K.L.ウォルトンの写真論、写真の透明性に関しての二つの研究発表を聞く。対象が一緒なのはたまたまらしい。その後は、午前が「写真研究のトポロジー:写真の語り難さについて」の三つの発表、午後からは討論と質疑。
写真に対してつむがれてきた言葉というものが、表現/記録、人間/機械、主観/客観、という二項対立的な構図においてなされてきた。そういった「モダニズム写真」の言説に対して「ポスト・モダン写真」の言説は、様々な社会的文化的コンテクストにおいて写真は規定されるのであって、写真そのものに決定的な同一性を認めない。しかし、「ポスト・モダニズム写真」と、それが批判する「モダニズム写真」との間でも、アイデンティティのロケーションを巡って、結局は「文化」/「自然」という対立構造が繰り返される。では、いかにしてオルタナティブを?というのが現在の「写真の語り難さ」である。それはバッチェンに詳しい。
けれども、討論では結局かつての二項対立を再確認することに終始してしまう傾向が一方であり、なかなかうまく噛み合わない。質疑応答でやっと面白くなってきたところで時間切れ。もう少し時間があれば。けれども、これだけまとまった時間、写真に関する討論を聞くというのは貴重な経験だった。

Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts

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Burning with Desire: The Conception of Photography

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