水面に写るもの

今日はゼミでの見学会で、京近美の「福田平八郎展」を見に行く。少し早めに行って向かいの京都市美で開催中の「エルミタージュ美術館展」を覗く。
福田平八郎展 | 京都国立近代美術館
大エルミタージュ美術館展 いま甦る巨匠たち400年の記憶
エルミタージュ美術館展の最後に、「都市の肖像」と題されたブロックがあって、都市景観を描いた絵画作品が並んでいた。おそらくは何かしらの発注者があって描いたのだろうし、どの絵画も同じような構図と光の具合で描かれていていたのだけれど、水面の描き方がそれぞれまったく違うのが面白い。水面に移る都市の姿をある人は幻想的に描き、ある人は波しぶきで映り込みを隠してしまっていたりする。いずれにしても、写実的に水面の表情を捉えようという意識が強いのだけれど、興味深いのは福田平八郎の水面の捉え方との違い。
福田平八郎はまったく異なり、写実ではなく写意、つまり簡略な筆づかいで、ものごとの本質、精神を描こうという意識が強い。まるで緑川洋一が撮影した瀬戸内の海の写真を思わせる、反射する光を捕まえようとする、絵が印象的。また一方、水面を描かずに余白を生かすことで、縦長の画面、上下に配された二匹の鯉の位置関係を不明瞭にし、見るものが水面をどう設定するかによって鯉が動く、といった視覚効果を狙ったものもある。つまり斜め上から水面を見下ろした視点を観賞者が採用すれば、鯉は手前と奥に位置する。あるいは水族館で水槽を横から見るような視点を取れば、二匹の鯉は異なった深さを泳いでいるように見える。これら二つの視点を往復することで、二匹の鯉は画面の中で動き始める。
日本美術ではやはり様式的な見方が主流なのだけれど、視覚的な効果であったり、美学的な見方というのを取ってみれば、また別の面白さも導き出せるのでは。