美術史学会全国大会覚書

名古屋大学で開催されていた美術史学会の全国大会へ、26日27日28日と。

26日

初日、26日は一番最初の、VILHELM HAMMERSHOI(1864-1916)*1というデンマークの画家についての発表から。Hammershoiは室内空間を好んで描く。けれども、理想的な家庭を描かないという意味でいわゆる室内画家とは一線を画す。また、白黒写真を想起させる彼の絵は、ピクトリアリズムがストレート写真によって「不純」と非難されたのと同じように、否定的な写真観によって批判されてきた。そういった「不遇の画家」を、改めて資料に基づき検証しようという試み。そしてカンディンスキーの色彩論、イヴ・タンギーにおけるデペイズマンとオートマティスムの発表を聞く。
午後からは、松本俊介における古典古代表象に関するもの、萬鉄五郎の風景表現、藤田嗣治の「ノスタルジー」と日本近代に関するを聞く。藤田は東京、京都と回顧展が今年初めて大々的な展覧会が開かれ、戦争画、裸体画といったイメージの強い彼の作品以外の作品も注目されている。この発表もそこに類するもので、藤田はセレクトショップのオーナーである、といった発表。彼の絵には、その国々の一昔前の品々がこっそりと描きこまれており、そのチョイスがその土地の人にとって見れば絶妙であったようだ。絵皿や、布といった「民衆芸術(アール・ポピュレール」が描きこまれる。それが見るものに対してノスタルジーを喚起する。個人的にはもう少し「ノスタルジー」という概念を藤田において深めた考察を聞きたかったけれど、それでも京都近美での展覧会が楽しみだ。学会後は、お姉さま方にご一緒させていただき、ひつまぶしを食す。美味。至福。
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27日

朝からid:akf嬢の愛車で豊田市美術館へ。「内なる子供展」*2を中心に色々見て回る。天井が高く、ゆったりとした展示。特別展も作品数が多すぎず少なすぎず、全体に気が行き届いている印象を受けた。<こども>に様々な「意味」をこめていくプロセスを見ていく。それは社会的なものであり、個人的なものであり、あるいは「普遍的」なものでもある。中庭にあったDaniel Burenの鏡を用いた作品の前で、撮影大会。
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少々豪華に昼食をいただいた後、学会開場へ戻り、研究発表「マネ再考」を聞く。が、さすがに少し落ちる。が、それでも面白い発表だった。その後、京大の方々と夕食でタイ料理。昨年の美学会の時もタイ料理を食べた。そういうものだ。

28日

最終日。朝から三本発表を聞く。これも日本近代に関するものだが、モニュメント系二本、雑誌系一本と初日とは随分と異なる。一本目は靖国神社に立つ大村益次郎象における台座について。結論のみを言うと、「大村象の台座は燈籠である」というもの。それを新資料に基づき、議論を進めていく。発表もわかりやすく、質疑応答、今後の発展の可能性を含め、個人的にはすごく面白かった。つまり、モニュメントという西洋的なモノを近代化の一環として取り入れたが、それが日本において、どのように変容したかというヴァナキュラー的な見地からさらに発展できるのではないか、と。西洋的なる物と燈籠的なる物のせめぎ合いこそが「大村像(台座こみ)」の面白さなのでは。その後は大正期における雑誌文化と、夢二について。1920年代における「美術趣味」というのは発展しそうな気がする。芸術写真を語る際の切り口になりそう。午前最後は、再びモニュメント。
その後先生に昼食をご馳走になって、ボストン美術館へ。アルフレッド・スティーグリッツ展を見る。惜しむらくは図録が無かったこと。スティーグリッツのみならず、セセッションの他の作家の写真も多数展示してあり、非常に興味深かったのだけど。Hammershoiの発表から、ストレートVSピクトリアルという構図について考えていた。後発のメディアである写真を、絵画との相対的な関係性に置いて位置づけようとしているわけ。それもあってか、スティーグリッツが最後に雲を撮った理由がわかった気がした。
学会を期に、色々交友関係も広がって、充実した二泊三日だった。宿が大通りに面していて、朝五時にはバイクとか車の音で目を覚ましてしまうこと以外は。

*1:[google:image:VILHELM HAMMERSHOI]

*2:[http://www.museum.toyota.aichi.jp/japanese/exhibition/child/index.html:title]