野生の近代
昨日の話。国立国際美術館移転一周年記念『野生の近代 再考――戦後日本美術史』というシンポジウム最終日へ。まずは基調報告。具体美術協会を、いわゆるミニマルアートやパフォーミングアートの先駆とみる、クリシェと化した語り口を相対化するために、空間性や、そこに依拠する同時性、グローバリズムといった視点を導入し、グタイピナコテカを中心に再検証するといったもの。
そして三日間の最終討議として、「再考:日本戦後美術史」。戦後美術史といえば、どうしても「現代美術逸脱史―1945~1985」を踏まえて書かれた「日本・現代・美術」を想起してしまうのだけれども、椹木野衣氏の言う「悪い場所」という考え方は、浅田彰氏が指摘し続けているように、「良い場所」の不在といった現代においてあまり意味を成さない。けれど「悪い場所」的な性格を前提にすえることで村上隆のような作家が出てきたと考えることは可能かもしれない。
シンポジウム前に「もの派」の展覧会と、常設展「瑛九」を見る。
以下個人的メモ:
- モダニズムと言う大きな物語が終わったあと、小さな物語が乱立し、小さな物語の乱立し、小さな物語の商品価値が、個々人の創造的価値を超越して言った過程となるわけだ。モダン以降のポストモダンを相対化するさいに召還されるプレモダンとしてのプリミティブな「野生」、土着的、「俗」。
- モダンを相対化するための「野生」のポテンシャルは良いが、地球上におけるほとんどの「モダン」はハイブリッドなものであって、見出されうる「野生」に対して理想を期待してはいけない。
- 作品、論文、展覧会という制度としてあまりに強力で、それゆえ自閉した美術館、及び、作家、展覧会の紹介に留まるジャーナリズム。この固定化している現状に対して批評的言説がどのようにして位置をつかむことが出来るのだろうか。
- 「絵画」の中でしか「絵画」を否定できないというダブルバインド。