とりあえず卒論の前書き部だけでものせてみよう。

シニフィアンス・タイガー
―― 立石大河亜の絵画についての一考察 ――

第15回読売アンデパンダン展で作家デビューを果たした立石紘一(1941-1998) ―― 以後タイガー立石、立石大河亜と改名 ―― の仕事は大きく分けて四つに分けることが出来る。いわゆる伝統的な手法にのっとった絵画作品、イタリアに渡る前後に多く出版された漫画、イタリアからの帰国後ほぼ毎年のようにされた絵本、そして滞伊中にオリベッティ社のエットレ・ソットサス工業デザイン事務所にて手がけた科学を対象としたイラストレーションである。確かに立石は多くのジャンルを手がけたゆえに椹木野衣氏が言うように「定義不可能な作家」*1と言えるかもしれない。しかし、自筆年譜に見られるように、イラストレーター、漫画家としての地位の確立を良しとしない立石自身の言からも、絵画というジャンルが活動全体の中心となっていることが理解できよう。今回取り上げるのはその立石の絵画である。時には漫画のようなコマを持つコマ割り絵画であったり、掛け軸や絵巻といった伝統的な表装を持った絵画であったり、一般的に言われる油彩画であったり、彼の絵画は様々な様相を持つ。そしてそこには極めて多様なイメージが濫立し、情報量の多い絵画となっているのである。
 本論の目的は二つある。一つは立石が描く絵画の表象の特性を探ることである。即ち、立石が如何なるコードに拠って作品を制作していたか探ること。そしてそれを踏まえてその意義・効果を探ることである。
 これまでの立石に関する言説というのは、イタリアに渡る前の活動に由来する「反芸術家」としてか、あるいは漫画家として杉浦茂赤塚不二夫等のいわゆるナンセンス漫画の系譜で語られることが多く、総合的に語られることはこれまでほとんど無かったように思われる。それは恐らくジャンル横断的な彼の活動が通常の「美術史」から逸脱していたゆえの軽視ゆえであろうと推測できるが、しかし、昨今絵画のみならず、漫画、イラストレーション、絵本と立石の活動を包括的に捉えた回顧展が何度か開催されている。ここに見られるように現在では、計りがたい立石の活動を、今一度見直そうとする動きが始まってきたように見える。その中でも展覧会、「メタモルフォーゼ・タイガー立石大河亜と迷宮を歩く」に序文として寄稿された天野一夫氏の「メタモルフォーゼ・タイガー ―― 虎像そして/あるいは虚像の彼方で」と題された言説は、立石の活動に対して多角的なアプローチを試みた数少ないもののうちの一つである。以下は立石の絵画に関して言説された部分の要約である。

立石の絵画は具体的なイメージが画面上に書き満たされて入るけれども我々はそこに完結した世界なりメッセージを受け取った振りをしながらも、たちどころに全てがすり抜けていくような感覚を味わうことになる。視覚的な欲求をつのらせて、読み込むために画面上を静止することなく回遊することになるが、しかしそこに明瞭な意味を受け取ることなく、むしろ意味の失効 <ナンセンス>を深く味わわされることになるのだ。といっても画面の余白を読む過程で味わったはずの魅惑だけは確かに受け取っている。我々は意味の深度を持たない表象の永久運動を続けるのだ。

 天野氏は「意味の失効 <ナンセンス>」ゆえに我々は「視覚の回遊」を続ける、と言う。しかし、「絵画は意味を伝達する」という伝統的な考え方が、前提としてその背後に潜んでいるのは言うまでもない。後に詳しく述べることになるが、絵画が伝達手段として有効に機能するには、一定の絵画的なコードにのっとることによって意味を観る者に押し付けることができるのだが、後述するように、立石の絵画が従来の伝統的な制度に加えて、他ジャンルからのコード*2を用いている以上、そこからは従来の絵画コードによる読み解きからは「意味の失効<ナンセンス>」を味わう他にないのは必然と言えよう。それゆえ立石独自の絵画コードを明確にすることが重要であり、そこから、新たな立石絵画の性格が見えてくるのではないかと考える。
 本論では、天野氏の言説を批判的に継承しながら、立石の絵画の特質を考察する。その際に、絵画以外のジャンル、即ちイラストレーション・漫画・絵本を単なる多才な作家の手遊びとして排除することは避けたい。というのも絵画をハイカルチャー、漫画やイラストレーション等の他ジャンルをサブカルチャーとして軽視する見方では、立石の幅広い活動は捉えきれないと考えるからである。このような立場に立ちながらも今回絵画にこだわる理由は、立石自身が、漫画媒体で描いたモチーフを再度油彩画で描くという、同一のアイディアを絵画メディアで反復する作業を行っていることに端的に現れているように、繰り返しになるかもしれないが、作家自身が絵画を主たる表現媒体と考えていた節があると考えられるからである。このような立場から立石の絵画を考えると以下のような結論が導き出せる。立石は従来の絵画コードとは異なった独自のコードを用いている。それは科学的なイラストレーションを手がけたことによると推測される理知的に描かれた個々のイメージに、漫画のコードに由来する視覚誘導装置を用いることによって、視覚的な関係性を持たせ全体に統合するというものである。そうすることによって立石の絵画は、従来の絵画のように意味解釈を観る者に要請することは無く、むしろ意味解釈されるべき現象や、事象を単に画面上に提示するのである。そして、そのことによって立石の絵画は、我々鑑賞者の態度によっては疑問形の読みを強制しつづけ、そして時には意味形成性を持つのである。言うなれば、立石は従来の絵画が一義的な意味の伝達を志向していたのに対して、それとは異なる、意味を限定することのない多義的な読みが可能な絵画観を提示したのである。
 このような結論を立証する為に、以下のような手続きを取る。第一章では、他ジャンルとの関係から連作<大河画三代>を取り上げ検証し、漫画のコードによって、個々のイメージが関係性を持つことになっていること、そして科学的イラストレーションに由来して個々のイメージが極めて理知的に、反感情的に描かれていることを示す。第二章では、ロラン・バルトの概念、「第三の意味」を参照することによって、絵画の意味解釈においてコードというものが、いかに重要な役回りを果たしているのかを明らかにする。そして第三章においては、漫画のコードとイラストの性質を併用するという、独自の絵画コードを用いることによって、意味解釈されるべき現象や、事象を単に画面上に提示し、絵画における意味を一定にすることのできないものとしていることを明らかにする。そしてそれが疑問形の読みを強制する効果を生んでいること、意味生成性を持つことを確認する。

*1:椹木野衣「立石大河亜―ジャンルのモーフィング」<アートの21世紀第8回>、『月刊アドバタイジング』、1998年7+8号、電通

*2:情報を表現するために用いられる、記号・符号の体系、慣習的な決まりごと。