写真研究会

昨日は同志社で久々の写真研究会。まずはミシオン・エリオグラフィークの話。1851年からフランス国内において、旧時代の遺跡保存の国家的プロジェクトとして、写真による遺跡の記録が行われた。それをミシオン・エリオグラフィークと呼ぶのだが、そこにいたるまでのフランス革命以後のイデオロギー的な展開を写真をめぐる理念を軸として詳細に調査したもので、非常に勉強になった。
続いてはMoving panoramaの作品解説と上映。以前韓国に行った際に利用した、パンスターフェリーがモチーフとして登場していたのが個人的には嬉しかった。Moving panoramaという彼のスタイルで、何を今後撮影対象として選択していくのか、というのが興味深い。Moving panoramaについては、Not Found | 関西テレビ放送 KTVで見ることが出来る。
最後の発表は三億円事件などで有名になった、科学捜査の手段としてのモンタージュ写真について。証言という非常にあやふやなものを基盤にせざるを得ないモンタージュ写真が20世紀半ばに亡霊のようによみがえってくる。対象が不在であるモンタージュ写真とは何なのか。それは指紋のように、エターナルなものとして外部から人間をアイデンティファイするという「幽霊的」なものなのではないか。細部、細部の寄せ集めでしかないにも関わらず、同一化の対象となってしまう。そこでは主観的なアイデンティティは排除されてしまう。
この同一性と同一化の乖離という話を聞いていて、ふと頭によぎったのが、「占い」の気持ち悪さ。占星術であったり姓名判断であったり、「占い」の多くは、様々なデータベースに基づいて構築されたシステムに個人を組み込み同一化していく。そこでは、主観的な同一性は完全に排除されている。もちろん主観的な同一性に対する疑いから、外部システムによって改めて自己を積極的に同一化してもらう快楽、つまり「自分探し」の一環としての占いにおいて、この気持ち悪さは生じないのだろうけど。