さくらん

ちょっと前の話。「さくらん」を見てきた。蜷川実花ということで。ストーリーに関しては、ジェンダーを絡めていろいろ語られているみたいだし、置いといて蜷川実花について。
まず、蜷川美花といえば、とにかく「色」とされている。またある程度撮影の対象も定まっている。つまり、原色の色彩で、金魚、花、芸能人といった被写体をとる写真家、という評価が一般的だと思う。で、この映画はまさにその蜷川美花像に対して忠実に答えてくれる。水の中でしか生きられない金魚を遊女に例え、その遊女の妖艶さの演出の一つとして花々が飾られ、ところどころに中川幸夫を意識したような感じで花が生けられ、それらを蜷川らしい色彩感覚で捕らえている。
けれども、最近考えていることなのだけれど、蜷川実花の特徴はその色彩よりも被写界深度の浅さにこそあるんじゃなかろうか。金魚にしても花にしても、そこで色彩がクローズアップされる背景には、対象の輪郭ぼけて互いにまじりあい、色彩へと溶け合っている、という点がある。結果、奥行きが消失し、単層的な画面になる。蜷川美花の写真には画面奥へと突き抜けていくような空間的な広がりはない。人物を撮る際に、彼女が書割を多用するのも同じ理由なのだろう。脅迫的にあの手この手で奥行きを引いていく、そのアリバイとして色彩がある。このような奥行きに対する嫌悪(といってしまって良いのかな)をどう考えるか。
それはさておき、そのような画面作りは映画という場に移れば致命的で、どうしても画面が単調になってしまう。壁面に対し平行にカメラを添えるような画面が非常に多くなり、映画全体がこじんまりとした絵の連続になってしまっていた気がする。写真の世界ではある程度インパクトがあった画面も、映画になると微妙に薄まってしまっている。何より写真にあった、ボケた箇所とピントが合った箇所が混ざり合う様な、ざわざわした感じが映画にはない。要するに動きがない。映画だと「嫌われ松子の一生」とかのほうがよっぽど色彩含めて印象的だと思う。何よりも、その空間を生きる映画内の身体のあり方が決定的に違う。「松子」の場合、松子は歌って踊ってあばれて、映画内の空間で生きている。けれどもさくらんでは、空間も平板ながら、そこに生きる身体はマネキンみたいに窮屈そう。つまり蜷川美花の絵的な構図の型の中に押し込められてしまっていて、どうも生き生きとした身体が立ち上がってこない。まるでマネキンみたい。
せっかく映画という写真と異なったジャンルに映画音楽初挑戦という椎名林檎とつるんで乗り込むわけだから、蜷川実花像を模倣するのでなく、もっとむちゃくちゃして欲しかった、というのが個人的な感想。紀里谷和明の「キャシャーン」のむちゃくちゃ加減がこの映画に欲しかった。

Sugar and Spice

Sugar and Spice


さくらん (イブニングKCDX (1829))

さくらん (イブニングKCDX (1829))