ファウンド・フォト

雨の中、嵯峨美へ。

車座シンポ「美術における写真表現の現在―松江泰治と木村友紀」

を聞きに行く。残念ながら松江泰治さんのシンポジウムは知るのが遅くて逃してしまっていたのだが仕方ない。で、今回は木村友紀さん。ナビゲーターとして、清水穣氏。
今回のテーマの大枠として掲げられたのが、ファウンド・フォト。ファウンド・フォトとは、ファウンド・オブジェ、あるいはもっと一般的な言い方をすればレディ・メイドの写真版で、蚤の市等で手に入れることの出来る、いつどこでだれがなにを、が不明瞭な写真。つまりアイデンティファイ不可能な写真のこと。
ファウンド・フォトとして選択される写真の条件は、偶然に選ばれたもので、利用可能なものとして人に選ばれなかったもので、失敗しており、いわばしくじった写真。バルト的に纏めると、社会的に――美術として、報道として等――流通する写真がストゥディウム的とすれば、ファウンド・フォトはプンクトゥム的だと言える。
ファウンド・フォトを利用する作家、あるいはバルトにしてもストレート写真家にしても、もっといえばドキュメンタリーを支える倫理にしても、結局はプンクトゥムが結論としてある。つまり文化的に歴史的に構造化された世界の向こうにある「シュールな現実」こそが写真の経験である、という倫理。けれども、木村友紀さんの作品はそのプンクトゥムという「突き刺してくる点」を展開し染みのようににじませ、拡大させていく。
木村さんのインスタレーション作品製作のプロセスを、僕なりに整理すると次のようなものになる。蚤の市で写真を見つけたり、気になるオブジェを拾ってきたり、変な風景を写真に撮影したりする、「蒐集」の段階。そうして構築された木村アーカイブから作品として使用する素材を「選択」する段階。そして、選ばれたオブジェをスキャニングして映像化したり、写真をデジタル処理でいじったりして作品として「作成」する段階。そしてそれらをホワイト・キューブに並べるという「展示」の段階。プンクトゥムの拡大というモメントは、「作成」と「展示」の段階に属する。個々の写真のプンクトゥムは「シュールな現実」へと見るものを誘うのではなく、他の作品へと横滑りしていき、展示空間全体へと拡大/拡散していく。
ところで、木村さんが「蒐集」の段階で写真を選ぶ際の基準として、つまりプンクトゥムに貫かれる瞬間を形容する言葉として、「変な」「不思議な」という言葉に加えて「かわいい」という言葉をぽろっともらしていたのが印象的だった。プンクトゥムとしての「かわいい」。