表象文化論学会

週末、土日は京都造形大学で表象文化論学会。一日目のシンポジウムでは「表象文化論のアクチュアリティ」を問題にしたもので、「免疫」、「多孔」、「液晶」をキーワードに展開されていた。一方で様々な領域を「多孔的」に越境し、他方でそれゆえに「免疫」作用が――時に過剰に――働く。加えて「液晶」――日常化したフレームの多数性――がそうした知の基盤となっていて、複数のフレームの切り替わりのうちにその都度小さなリアリティが立ち上がってくるという話。こうした思考モデルというものを個別の研究においていかに実践していくのかということが問題。
二日目の研究発表では「ポスト・メディウム・エステティック」、「共感覚の地平」、「Moving Picture」の三つのパネル、計九つの発表を聞く。「ポスト・ミディウム・エステティック」では、デジタル以前以後をひとつの断絶と考える場合、写真や映画といった個別メディアの自律的な探求を深めていくだけでなく、「ポスト・ミディウム」という新たな理論的な地平が求められるのではないかという問題提起がなされていた。とはいえ、当日も議論されていたことではあるけれども、歴史的に「ポスト・ミディウム」的というべき状況はしばしば生じてきたことを鑑みれば、こうした問題提起は今日的なメディア分析のみに関わるわけではないだろう。歴史的な観点においても、どのようにメディアを分析すればよいのかを改めて考えさせられた。
共感覚の地平」では、「共感覚者」がメディア――特に文学――においてどのように表象されてきたのかという観点や、共感覚研究についての事例研究、あるいは脳科学的な見地からの研究紹介と、「共感覚」が広域な切り口から論じられていた。発表と質疑から何となくわかったのは、「共感覚」という現象が、完全に生物学的・遺伝的に決定されているものであるというよりは、ある程度文化的な側面を孕んでいるのではないかということ。例えば風鈴の音色を聴覚的に感覚した際に涼しいという触覚的な感覚を得るという経験と、特定の文字に対して特定の味覚を感じるという「共感覚者」の経験が区別できるのかということ。少なくとも「共感覚者」と「非共感覚者」との区別が決して本質的なものでは無いのであり、もっぱら「共感覚」を巡る様々な言説や表象がこそが両者を分節していると考えたほうが良いのかもしれない。
「Moving Picture」では、二つの世紀転換期――19世紀から20世紀、20世紀から21世紀――において、身体がいかに表象され、また表象が身体をいかに規定してきたのかが問題となっていた。表象の生産と受容、またその表象が収集され流通する場はどういったものだったのかが気になった。つまりは身体のアーカイブ形成とその受容の各時代や各言説領域における、その諸相を分析するのは面白いかもしれない。