未完の過去

先日、11月3日と4日の2日間に亘って開催された国立国際美術館開館30周年 記念シンポジウム「未完の過去 − この30年の美術」*1を聞きに行ってきた。このシンポは、「アジア」「サブカルチャー」「ジェンダー」「国際展」「美術館」という5つのセクションを通して、1970年代から現在までの美術とそれを巡る状況を考えてみようというもの。スケジュールの都合上1日目に開催された全体討議を参考にしながら、全体を雑駁にまとめてみます。
オイルショック、学園紛争、あるいは「人類の進歩と調和」を謳った大阪万博に対して、反万博という芸術運動が起こったように、1970年前後は社会的に大きな転換点だったといえる。それまでは、「白人・男性・知識人」にを中心として「進歩と調和」を目指し一直線に発展してきた(「モダニズム」)。しかし、70年前後を境にそれが信じられなくなって、いわゆる「大きな物語」ではなく、「小さな物語」が氾濫するようになってきた。そこでは「非=白人・非=男性、非=知識人」つまりは「他者」に目が向けられるようになって、「アジア」や「ジェンダー」や「サブカルチャー」が注目されるようになる(「ポスト」の時代)。周辺化されていた、マージナルな人々に目が向けられるようになるのは、それ自体は良いことである。しかし、それは、経済領域における、大量生産大量消費という「大きな物語」から、情報の差異、「小さな物語」の差異の消費という「軽薄短小」な資本主義経済への転換と表裏を成しており、それが「国際展」などの背後にマーケットとして潜んでいることは忘れてはいけない。そこで、全てが多様化し、「他者化」した中で、果たしてどのように振舞っていけば良いのか、というのが大きな問題点として提示され、回答として、頑固親父的な、ドグマティックな振る舞いの必要性が提案されていた。
「他者」だらけの、あるいは「小さな物語」が氾濫した世界で、「他者」に容易にアクセス可能な環境が整っている状態であっても、結局は自分の欲すものを欲するようにのみ享受しているし、その「自分」という「主体」もまた、「他者」との関係の中でしか規定され得ない。「欲しいものが欲しいの」。その閉塞感を打開する方法として頑固親父化も良いけれど、僕としては、漠然としているけれど、「好奇心」なのでは、と考えている。
一日目の夜に、交流会があって、学芸員の方のご好意で参加させていただいた。シンポのパネラーの方も幾人か参加されていて、色々お話させてもらったのだけれども、緊張したぁ。。。

*1:[http://www.nmao.go.jp/japanese/kouenkai_popup/200711Symposium/200711Symposium.html:title]