NAGASAKI

9月26日〜29日の間、長崎に行ってきた。以前から東松照明による長崎を巡る一連のシリーズ、いわゆる長崎マンダラ、特に初期の仕事としての写真集『<11時02分>NAGASAKI』に関心があった。にも関らず一度も長崎の地に足を踏み入れたことがなかったので、夏休みを機会に足を運ぶことにした。道中、列車の中で読んでいたのが、これ。長崎医科大で被爆した医師、永井隆の全集。

永井隆全集〈第2巻〉

永井隆全集〈第2巻〉


この全集に収録されている、永井の代表作である『長崎の鐘』は、いわゆる浦上燔祭説が表明された小説の一つである。浦上燔祭説とは社会学者の高橋眞司による命名で、高橋によれば(a)原爆、(b)死者、(c)被爆者、をどのように意味づけるのかと考えた際に、(a)神の摂理、(b)燔祭*1、(c)試練と考える説である。この説の背景には、浦上をキリシタン部落として差別する長崎の二重構造があったのだが、浦上燔祭説が日本の戦争責任とアメリカの原爆投下責任とが免責される思想の下地となったことを厳しく批判する。怒りのヒロシマ、祈りのナガサキというステレオタイプともいうべき原爆思想の源泉をここに見るのである。
実際に長崎に到着し、ガイドブックや案内を見ていると、永井隆が特権的な位置を市内では与えられていた。永井隆記念館*2平和記念公園原爆資料館と並んで原爆の記憶を保管する施設の一つとして上げられるし、原爆資料館にもまた永井隆のコーナーが設けられていた。
原爆資料館を見学した際に一番驚いたのは、『<11時02分>NAGASAKI』にゆかりのある事物があまりに多いという点だった。写真集の冒頭には原爆で被爆した品、原爆遺品を撮影した写真が並ぶのだが、そこで被写体として選択された品々が資料館のガラスケースに並んでいた。そのことは事実確認の作業の中で予め知ってはいたのだが、改めて見学してその数の多さと、写真で見ることとモノそのものを見ることの経験の違いに驚く。今回新たに知ったことの一つに、東松がカメラを向けた方の一人に、久松シソノさんという方がいらっしゃるのだが、この方は先に述べた永井隆の下で看護士として働いた経験を持つ。このような著作もある。
凛として看護

凛として看護


また、資料館に設置されたビデオコーナーでは、被爆者の方々が自身の経験を語る様を撮影したビデオが閲覧できるのだが、そこにリストアップされた語り部の中に、東松の写真集に登場する人が幾人か見受けられた。このような、被爆の記憶を保管する施設と、東松の写真集との奇妙な繋がりが気になった。
さて、長崎での目的の一つが歩くこと。実際に街の中を歩き回って、その土地の空気、雰囲気をつかめれば、と。台風十三号の影響は大きかったようで街のところどころでその被害が残っていた。滞在中、ずっと天気が良く、歩き回るには少々暑い。それほど大きな町ではないし、建物が密集いる一方で、中華風、洋風、和風の建物がごちゃまぜになっている。そこに修学旅行生を乗せた大型バスが走り回り、集団で制服の団体が歩き回る。様々な文化がごっちゃになった上、それが凝縮されているような印象を受けた。特に浦上あたりを歩いているときに感じたのだが、ものの大きさの比率、縮尺が少々混乱しているかのような、一種の眩暈を感じてしまう。坂も多く、フレーム内に様々な要素を凝縮するような撮影スタイルを好む東松が「長崎に恋をした」*3のがわかった気がした。

*1:犠牲の動物を祭壇で焼き、神に捧げた儀式。

*2:時間の都合で入ることは出来なかった。

*3:東松照明編著「長崎マンダラ」の帯より。