妻有旅行記(3)

妻有トリエンナーレ 大地の芸術祭 8月31日(2)

フクタケハウスを見学した後、そこから徒歩三分ほどのところにある名ケ山写真館という作品を見に行く。

  • 56、倉谷拓朴、≪名ケ山写真館≫

二階建ての空き家を改造した作品。瓦屋根と茅葺屋根のハイブリッドな作りだったのだが、帰ってきてから調べてみると、もともとそうだったのではなく、今回の作品として改築したもののようだ。その割には新しさを感じさせない茅葺で、実際に見てみるとそういう家だったとしか思えない。さて、家屋に入ると、一階部分は枯山水があつらえられており、古い道具が水の流れに見立てられた砂にうまっている。農具は、沈んでいくところにも見えるし、浮かび上がってきているようにも見える。
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細く急な階段を登ると、壁面いっぱいに集落の方々の昔の写真、肖像写真や集合写真が貼られている。また、最近の様子を撮影した映像に、昔語りを重ねたりするような映像作品も見られた。
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ここで気になるのは、先に紹介したような、旧真田小学校に関するエントリーで記したように、ノスタルジーを喚起するために現地のものを使用するのとは異なっているという点である。確かに、現地の過去を志向する「古写真」ではあるが、それらは一枚一枚スキャニングされ、プリンター出力によって新たに作られている。それゆえ、色合いや撮影時期という観点から見れば「古写真」ではあるが、物質としての写真を見てみれば非常に新しく綺麗であり光沢があり、またもしかするとフォトショップ等によって傷等に幾分かの修正が加えられているのかもしれない。この印刷と撮影との間にある時間の幅、文字通り過去(あるいは死者)が現在に蘇ってくるような印象を、印刷されてまもない「新・古写真」の艶やかな光沢のある表面から受ける。
また、この写真館の屋根裏部屋にも登ることが出来る。正確に言うと階段というか梯子を登ったところで見ることが出来る。屋根裏部屋には、幻想的なインスタレーション作品が設置されており、光の揺らめき、ヘッドホンをつけて音響が聴覚を刺激し、かすかに茅葺ゆえの藁の香りがさらに嗅覚を刺激する。階段に登った状態で見るので、必然的に観者は一人で作品と向かい合うし、高いし不安定で正直怖い。
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写真では、露光時間を長くしたことではっきり見えてしまっているが、実際はもっと薄暗く光の揺らぎのなかでぼんやりとしていた。新潟的な田んぼの上を動物たちが浮かんでいる。俗っぽい言い回しかもしれないが、普段は眼に見えない「何か」がそっと顔を覗かせたような、となりのトトロのススワタリ的存在とでも言おうか。幽明をつなぐようなインスタレーション。
また、この写真館の二階には、窓が開いた休憩スペースが設けられている。美味しい麦茶が飲め、座布団が引いてあり、くつろぐことが出来る。
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窓の外には、青々とした田園風景が開放的にパノラマのように広がっており、薄暗い家屋の部屋の内部に漂う重苦しい雰囲気とは対照的である。しかし、疑問に思うのは、なぜこのようなスペース、田園を眺めるような窓を作る必要があったのだろうか。この写真館の全体像の写真を撮っていないことが非常に悔やまれるのだけれど、四角形の家屋の真ん中が茅葺の屋根に改造され、ぽっこりと飛び出ており、その内部には、屋根裏(三階)として田んぼの上を動物たちが浮かんでいるようなインスタレーションがある。その下の二階、インスタレーションを見る方向と同じ方向に窓が開けられおり、田んぼが見渡せる。また二階部分は窓の開放感とは対照的に薄暗く、壁面には写真が壁一面に貼られている。考えすぎかもしれないが、この家屋そのものがカメラオブスキュラをモデルとしてデザインされているのではないだろうか。二階部分に開かれた窓から入ってくる光(田園風景)は、そこらじゅうの壁に張られた「新・古写真」という蘇った過去、死者というプリズムを反射し、屋根裏へと導かれる。そこで観者はまさに一人で階段の上から覗き込む。そこには、縮小された田園風景が広がるが、休憩室から望む田園風景にはなかなか感じられない「何か」がある。それは匂いであり音であり普段は眼に見えない霊的なものである。
単純にノスタルジックに写真を使うのではなく、過去へと引き戻しつつそれを現在へと蘇らせている、それも過去とは違った別のものとして現在をよみがえらせている。「それはかつてあった」というロラン・バルトの有名な言葉は次のように続く。「すでによそに移され相違している」つまり、「かつてあった」ものが、今、別のものとして目の前にある、ということなのである。この写真館は、このことを忠実に再現した作品だと言えるだろう。