共犯者高嶺格

23日:写真研究会でも発表していただいた、北原先生の授業で、現代美術作家の高嶺格氏がゲストスピーカーとして公演された。公演は三部構成で、(1)初期の作品(2)後期の作品(3)質疑応答というもの。僕は(2)からの参加。公演というよりは高嶺氏の作品鑑賞会といった様相をなしていた。(2)で見せていただいた作品は四つ。

  1. God Bless America(2002)*1
  2. 木村さん(1998)*2
  3. 在日の恋人(2003)*3
  4. Baby Insa-dong(2004)

後者二つはインスタレーションなので、高嶺氏自身が写真を編集し、動画化したもの。今回は北原先生の授業――「戦争の表象、表象の戦争というテーマ」――の一環ということで、作家と他者(国家、歴史)との関係性を取り上げた作品を中心に見せていただいた。公演会後、高嶺氏、北原先生らと珈琲を飲みつつ歓談。≪Baby Insa-dong≫におけるドラッグクイーンの持つ役割についていろいろ語り合う。以下、僕の考え。この作品は、高嶺氏と、恋人(在日の恋人)との結婚式を追いかけたもの。着物を着た高嶺氏とチマチョゴリを来た婚約者の結婚式。添えられたテキスト(今回はレジュメとして配布された)からは、結婚にいたるまでの軋轢が垣間見える。恋人の父親の日本人に対する嫌悪感。高嶺氏が無意識的に恋人に感じさせていた「在日への嫌悪感」それらを抱えつつ結婚式は、カナダ(だったと思う)からの西洋人を司会者とし進行する。「日本人」と「在日」という関係と、「男性」と「女性」という関係が、司会の西洋人の手によって「和解」する一連の流れ。そこで東南アジアから来たドラッグクイーン「ナジャ」が召還される。参加者たちの戸惑いの表情が笑いに変わる瞬間、「和解」は完結する。「ナジャ」という「日本人」でも「韓国人」でもない、そして「男性」でも「女性」でもない、新しい「他者」の出現により、「結婚式」という「和解」の儀式は完結するのだ。ある種のナイフを突きつけられたまま作品は終了する。結婚式というめでたい場をこのような作品に仕上げるとは。。。他の作品からも感じていたし、氏自身も口にしていた言葉だけれど、イデオロギーの共犯関係に自分を位置づけることが高嶺格という作家なのだろう。≪God Bless America≫にしても、(参考:ページがみつかりません -404 Not Found - | OCN)、顔は作家によって歌わされているのか、それとも顔が歌うために作家は労働しているのか。このような複雑な関係によってイデオロギーは形成される。それをイデオロギーの外部から指摘するという第三の位置ではなく、そのイデオロギー生成の場と共犯関係を結ぶことで、生成の場を顕在化させナイフのように鑑賞者に突きつけてくるのである。

*1:http://www33.ocn.ne.jp/~artv_tenpyo/tenpyo/webtenpyo/3-5/ishibashi-takamine.html

*2:http://www.realtokyo.co.jp/japanese/column/ozaki93.htm

*3:http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/curator/kc_0312.html