痕跡

息抜きに京都国立近代美術館にて開催中の展覧会、「痕跡」を見に行ってきました。この展覧会は乱暴に要約すると、物理的な接触の結果(いわゆるインデックス的なもの)として戦後美術を考えようと言う展覧会。アクションペインティングだとかイブ・クラインの人体測定だったり。具体美術協会関係もいくつか。まさに「痕跡」っという幹事の作品が多いのですが、ただ「痕跡」という考え方を拡大しすぎてるような印象も。好意的に受け取るのであれば、すべての芸術作品は何かしらの「痕跡」だと考えることはもちろん可能。何かと話題のデュシャンの≪泉≫にしても美術館の中にもってきてそこに置いた「痕跡」とすることが出来る。それこそラスコーから現代まで全てが「痕跡」だと言うことも強引だけれども不可能ではない。
今回の展覧会をみていると、そこまでの拡大解釈の可能性を示唆させる構成になっているような気がします。通常ならば三階のみが企画展なのですが、今回は四回の常設展示場にまで「痕跡」展が伸びてました。つまり、「痕跡」展を見終ったらそのまま常設展示へと引き続き足を進めることが出来るように導線が設定されている。常設展に「痕跡」展でも展示されていた田中敦子も出されてたし、長谷川潔とか写真作品:野島康三とかデュアン・マイケルズとか。あと野村仁も、「痕跡」展と常設展両方並べられていた。
深読みをするのであれば、この展覧会はすべての作品を「痕跡」という切り口で考えることを提案しているのかな?時代やグループや派閥で語られてきた現代美術を、個々の作品に立ち戻って、それを一人の作家の痕跡として考えることを。深読みしすぎか…。