Atmos

明日までということで、畠山直哉「Atmos」@大阪成蹊大学:長岡京に行ってきました。駅から少し距離があるので、スクールバスで行こうと思っていたのですが、待てどもバスは来ず…。結局徒歩で行きました。暑かったぁ。閑話休題。畠山さんというと、数年前に国立国際美術館@万博公園でおこなわれた展覧会で彼の一連の作品群、「ライムワークス」「ブラスト」「川の連作」等々、大量に見たのですが、今回の展覧会に出展された作品は新作です。

写真家畠山直哉が、2003年初頭、フランスのアルルで滞在制作した「Atmos」シリーズより14点を展示します。このシリーズは、同年、アルル国際写真フェスティヴァルに出品され大きな注目を集めたもので、関西では今回がはじめての展示となります。
製鉄工場から吹き上がる蒸気の雲。カマルグ湿原の静謐な自然。このシリーズでは、これら2つの対極的な風景――人工と自然、動と静――が並置されていきます。千変万化する光や水の諸相を鮮やかに定着させたこれらの写真は、しかし、こうしたさまざまな対立を超えた次元へと――驚きの経験とともに――私たちを連れ出してくれるはずです。

「アトモス」は、「蒸気」を意味する古代ギリシア語で、「アトモスフィア(大気)」の語源ともなっている言葉。
「そのことを知ってから、カマルグに満ちる大気と、製鉄工場の蒸気は、僕の眼の中で溶け合うようになった。空と大地に人間の兆し(きざし)を見、工場の蒸気の雲に大自然を感じることに、もう何もおかしなところはないと思えた。そして、自然と人為との境界に分かり易い線を引くということが、もはや不可能なことだと、僕には思えてくるのだった。」(畠山直哉

これまで、畠山氏は「都市」と「自然」の関係についての作品を作りつづけてきたのですが、この「アトモス」は以前とは少し性格を異にする印象を受けました。言うなればこれまでの作品に「都市」と「自然」という二項のある種の拮抗があったのに対して、今作では、その二項対立が解消し、一つの「世界」を形成しているようにすら思えました。例えば、「川の連作」でも見られたような、消失点を画面の中心に持ってくるフレーミングは今作でも利用されています。しかし、前者が上下の緊張関係が画面を覆っていたのに対して、後者でそれは見られません。むしろ二項対立というより、それらが等価なものであるような感覚になってきます。
しかし、こういった作品を語る際に、被写体論に陥ってしまうことは避けなければならないと思います。また、(畠山氏のような現代ならばその不安はないけれども)ある程度歴史的な写真を扱う際に、当時の人たちの集団的無意識を其処に読み取ろうとする態度も方手落ちであるような気がするのです。結局のところたどり着く論点は、「写真」であること、ということなのではないでしょうか。写真とは何か。何故写真なのか。結局其処に行き着かなければいけないような気がする。漠然とですが。