授業

ゼミで高畠華宵についての発表を聞く。先日書いた高畠の仮想写真は趣味ではなく、自らの作品制作の為の資料として取られたセルフポートレートだそうだ。申し訳ない。写真というツールを三次元から二次元への転換ツールとして使用しているわけだ。そして、モデルが華宵地震である必要性があったのかということがひっかかる。確かに二次元から三次元への以降を視覚化するために写真を使うのは良くわかる。しかしそこで彼自身である必要はあったのかっと。そこに何かしらの趣味性があったのか、もしくはジェンダーに由来する興味があったのか。