『世界の中心で、愛をさけぶ』の感想(ネタバレあり)

先日見てきたこの映画。よく出来ています。少なくともきっちり良い仕事しています。行定監督。ちょっと見直しました。ただ、全体的にちょっと縮こまった印象を受けました。それはもちろん監督の意図するところでそこにこそ「感動」を生もうとしているわけで、それは成功しているといえます。バイト先の映画館では500席程度ある箱でやってるのですが、数百人のお客さんが泣きながら一気に退場してくる光景は壮観です。ここらへんにスポットライトを当ててちょっと感想を書いてみようと思います。
この映画は二つの時間軸にそって展開していきます。まず、現在、そして80年代後半の主要登場人物の高校時代。この二本の時間軸が高校時代を主軸にしながら交互にスクリーンに映し出されます。そもそもこの映画は東宝ラインナップにおいても穴埋め的なポジションにありました。というのも≪サヨナライツカ≫という辻仁成原作の映画が上映するはずだったのだけれども、監督の行定勲と原作者辻さんとの折り合いが悪くなって企画はポシャッて原作者は主演女優とランデブー。監督と主演男優大沢タカオと撮影の篠田昇は置いてけぼりをくらっちゃったわけです。その紆余曲折があって、この≪世界の中心で〜≫は撮られることになったけです。ちなみに≪サヨナライツカ≫は衣装がワダエミhttp://www.kiryu.co.jp/wadaemi/)さんやったからそのまま衣装してくれたらそれはそれで面白かったのに。やや突拍子もなくなったかも。閑話休題。
さて、先に挙げた二つの軸ですが、この映画がこれほど「感動」的なものとして世間に受け入れられている鍵はこの関係にあるのかと思います。もう少し具体的に述べるのならば、この二つの軸の繋げ方にあるように思います。それは写真、カセットテープという二つのアイテムと、律子という原作にはいないらしい(未読ゆえ詳細不明)キャラクターによって成されているのです。仄聞するところによると、この律子さん、はなはだ評判が悪いようで(笑)

とか。結構重要なキャラクターだと僕は思うのですが。少なくとも彼女のお陰でこの映画が単なる閉塞に終わらないで済んでいます。
この現在と過去という二つの時間軸を繋ぐアイテムとして写真とカセットテープが効果的に使われているのですが、そもそも写真にしてもカセットにしても存在的に郷愁を誘う効果があります。ロラン・バルトのいう

それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた、がしかし、すでによそに移され相違している

という写真の性質がここで効果的に使われているのです。アキは確かに其処にいたことを「忘れられるのが怖い」と撮影された写真は明らかにします。そしてそれが現在大人になったサクの目の前にある。さらには撮影されたその瞬間、我々鑑賞者は、未来、死を予感する。即ち、この写真がおかれた写真館においては現在・過去・未来という時間軸が錯綜しているのです。重爺が現在と過去という二つの時間軸に於いて容貌が変わっていないのもそれゆえなのではないでしょうか。カセットテープに関しても同じようなことがいえるでしょう。
現在に生きる大沢タカオの目線で過去が語られるのが――カセットテープと写真を通じて――この映画を縮こまったものにしてしまっているのでしょう。過去を眼差す現在と過去、この映画はこれだけで描かれているからです。ただ、この眼差すために媒体となるカセットテープと写真が非常に現在と過去を親密なものに、それゆえ切ないものに仕立て上げているのです。言うまでもなく、写真は光を定着させることで画像を作ります。「かつてそこにあった」ことを如実に証明するという写真のインデックス性有効に使われているのです。カセットも同様で、マイクの前にかつてアキがそこにいたということを如実に切実に伝えるのです。このような写真とカセットによって過去が現在と結びついているのですが、そのカセットテープを伝達していたのが当時小学生だった律子なわけです。律子もまた現在と過去とを結びつける重要な役割で、彼女の存在が、単なる過去と現在との交流にこの映画が終始することをかろうじて救います。つまり彼女が最後のカセットテープをサクに手渡すことによって過去と現在を媒介するという役目に終止符が打たれ、律子とサクは次の未来に進むことが示唆されるということです。
それにしても凡庸な原作を低予算とアイディアでここまで出来た制作側は素晴らしいです。あと、長澤まさみにはやられました。≪ロボコン≫から確実に成長してますね。