キャシャーン感想(若干のネタバレ有り)

見て来ました。『CASSHERN』ん〜♪素晴らしい。多くの人が断りとしてまず書いているけれども、僕は原作を知りません。もしかしたら知らないからこそ楽しめたのかもしれないけれども、そういうこと考えてもしょうがないんで辞めます。
いろいろなところでボロカスに言われることが多くてそれが話題に拍車をかけている感もあるのですが、そのボロカスに言う時のロジックというものがある程度一貫性を持つというか、一つの傾向をもつように思えます。それはいわゆる「映画」として変だ!という点。それはナラティブという観点から整合性が無いというようなものであったりないしはいわゆるハリウッドに端的に見られる映画の文法からの逸脱という観点であったり。
ですがそういうものを最初から期待していない僕としてはどうでも良いことだったりもするのです。そもそも写真家出身であり、映像作品といえば宇多田ヒカルのPVのような作品であったりするわけなのだから映画としての完成度はこの作品を見るときに足かせにこそなれ、決して有意義な態度では無いと思われます。
一体全体この映画の何が僕を魅了したのかというと、自分の畑、即ち、写真とPV*1を利用することで如何にして「映画」という別畑へと変換するのかという心意気。そして、確かに其処で語られる一つのテーゼ、「許す」は無邪気に過ぎるだろうし、青臭いものである。が、しかし、それをコレだけの費用をかけて*2、手間をかけて(監督、編集、撮影を手がけたキリヤさん)世に送り出すという心意気。さらに実現したところ。このようなものではないかと、自分では考えています。
最初に挙げた、「映画」への変換に関してですが、この映画の特徴として、「許し」という最終的な提言に向かう説明的な台詞は多く発せられるのだが、物語内容を伝達する役割をもつ台詞はあまり発せられない。その代返物と言えよう、物語形式としての映像に関しては並々ならぬこだわりが細部にいたるまで感じられるのです。
数多のショットがシンメトリーに基づいており、劇内における第七区以外の建造物も左右対称が基本的な造りとっています。この映像上の平穏さを打ち破るかのような斜めの動き。即ち新造人間達の身体能力であり、研究所を突き破る稲妻であり、第七区を捉えたシークエンスが際立ったものとして「(物理的な、感情的な)動き」の表現として表れてくる。父親が欠落した記念写真も、単純に父と息子の不和としてではなく、シンメトリーを崩す為、平穏さを揺り動かす為であると考えられるのではないでしょうか。振り返ってみればこの映画では、このシンメトリーの提示とその揺らぎという構図を極めて多く使用しています。公害に毒された森林における鉄也とルナの会話も肩に顔を乗せあったショット(シンメトリー)と、動きのあるショットの繰り返しによって表現されていますし、上条将軍とその息子のクーデターが語られる場である円卓を俯瞰するショットも、息子(上条中佐<西島氏>)はシンメトリーを不安定にする存在として(対応するのは閉経の壁画に描かれた顔)捉えられています。
手元にキリヤさんのPV集が無いので、これがこの映画の特徴なのか氏の継続的な手法なのかを確認することは出来ないのですが、記憶をまさぐるとPVにおいてそれは目立ったものではなかったと思います。
以下余談。というか与太話。
鉄也とルナの子供としての希望としての稲妻。何か気になるなぁっと思ってふやふやと思索してみたのですが、鉄也≒キリヤ、ルナ(月→の光)≒ヒカルと極めて暴力的に考えてみれば、生み出された希望=稲妻=この映画『CASSEHRN』!?とか(笑)稲妻が刺さった大地は映画の鑑賞者一人一人!?と飛躍しちゃう。この青臭いまでの自身たっぷりさ加減があながち冗談ではないかもと考えてしまう(笑)

*1:SAKURAドロップス若冲の絵が出てきたのは印象的でした。

*2:6億でしたっけ?