シービスケット
随分前に見た映画だけれども、何かしら書く気にもならなかったこともあってしたためることなく脳内放置してました。言うなれば取り留めて感想も無い映画、周辺の称賛の言葉には到底及ばない凡庸な作品だと思ったわけ。その理由としてシービス鑑賞前に見た『ファインディングニモ』が期待以上に完成度が高かったことが挙げられる。それにくらべると、『シービスケット』は『ニモ』以上にストーリ自体は込み入っており、売り文句として「感動的」と称されるに足る作品になる素材は十二分に備わっている。にも関わらずなんでこの『シービスケット』が凡庸な作品に僕の目に映ったかを時間がたった今、色々考えてみた。
物語の基本構造は、子供(一郎/仮)を失った男(馬主)が、一家離散によって孤独な道を歩むシービスケットのジョッキーを我が子(二郎/仮)のように接する。そしてシービスケットの調教師として、時代遅れとなったカウボーイの男がからみ、一匹の馬を中心として三人の男が失われた「希望」を取り戻すというもの。これだけ読めば十分感動対策の名に恥じない作品に仕上がるかと思いきや(以下略)。その原因として、息子を失う馬主や、孤独に生きるジョッキーなどの個々のストーリーが他のストーリーと絡みつく際の楔―くさび―が弱い、作りこまれていないという点が挙げられると思う。例えば「月へも届く」思いで愛した息子を無くした馬主が、月をかたどった玩具で遊ぶシーン。喪失と再生がテーマの作品において、これだけのシーンで息子の喪失の悲しみを伝えるのに十分だとは思えない。また、息子がかつて読んでいた本を取り上げ開いたページ、そこにはスーパーマン的な男が悪役を殴り倒す挿絵が載っており、そこからフェードアウト→ボクシングをする孤独なジョッキーにフェードインという流れをたどる。即ち、息子の憧れの対象を二郎/仮へと重ねる訳。その他、個々のストーリーのくさびとなるシーンそのどれもがいわゆるどこかで見たシーンで使い古された安易な手法によって映像化されている。それゆえせっかくのストーリーがぬるくなってしまっている。確かに競馬のシーンにおける映像と音楽(音響)のカラミは見ごたえ有るけれども…結局は馬頼りな作品だと思う。