芦屋市立美術博物館

昨今一部で話題になっている芦屋市立美術博物館の問題に関して。

兵庫県芦屋市は31日、市谷崎潤一郎記念館と市立美術博物館について、民間への委託や売却を検討していることを明らかにした。財政難が理由で、同日発表した行政改革実施計画に盛り込んだ。
計画では、谷崎記念館は05年3月までに管理や運営などを請け負う民間企業を探す。美術博物館は06年3月までに売却も含めて検討し、委託・売却先が見つからない場合は休館も視野に入れる。

このことに関して僕が参加している美術館関係のMLでも話題になっており、以下はそのことに関する僕のMLへの投稿。

実際的に美術館にたずさわっていないぼくだからこそ以下のような文章をあえて書きます。もしかしたら誤解を招く恐れもあるかもしれませんが、恐れずに書いてみます。

>この場ではできるならそうしたリアルな現状分析から未来像を描く意見交換がなされてもいいと思います。
というお言葉に対してもっともだ!と思い稚拙ながら意見を。

先日森美術館に行ってきました。
期待に違わず、というか期待以上に充実した展覧会で、やや過大評価かもしれませんが、これまでみた展覧会の中でも極め質の高い展覧会であったと思います。各作品が其処に展示されていることの必然性を抽象的に読み解くことができ、それを個々人が内的に発展させていくだけの余白も残しつつ楽しむことが出来る。レ二・リーフェンシュタールの「民族の祭典/春の祭典」を含めた幾つかの長編映画がまるまる「展示」されていたり、葛飾北斎や勝川春章の春画(かわいいものではなく、まさにソレがズドドドドド!と描かれているもの)が「お子様お断り」で展示されていたりと、これまでの展覧会が行わなかったこと、行おうとしなかったことを惜しげもなく実践してくれています。ほかにも語り尽くせないほどの魅力と娯楽と知的快感がこの展覧会にはあります。

もちろん、この展覧会・美術館に何の不満も無いかと言えばそうではないです。しかし僕が、「ハピネス」をここまで絶賛するのにはもちろんわけがあります。森美術館が抱える最大の問題はこのクオリティを今後継続していくことが出来るのか?ということです。50年後、失敗例として人々の記憶に残るようなことは避けないと、森美術館にとっても日本の美術界にとっても不幸な話です。

そしてこの美術館が目指していることの一つに、日本全体の文化水準の底上げ、というものがあります。それに関して「アーティリジェント」というやや胡散臭い(笑)言葉も提言しています。本来ならば、日本全体の文化水準の底上げというものは、国や地方の行政が行うべきこと。にもかかわらず、国も地方も自国の文化の現状を知ろうという態度も見せません。いったい日本の文化行政に関わる人々の幾人が、今流行っている映画を知っているのでしょうか。どんな漫画がよまれているとかを知っているのでしょうか。まさか、今時漫画は子供の読むものだとか、映画などキッチュに過ぎない等と考えているはずはないと思いますが、まさかね。

このMLに関してもそうですが、僕がもっとも疑問に思ったのは、森美術館の開館というのは、日本の美術館の歴史において、一つのメルクマールとなるのはほぼ確実なことです。にもかかわらず、あまり多くの人が感想なり、意見なり批判なりをしていないような気がするのです。日本の美術館にとってもっとも必要なものは活性化ではないかと僕は思います。森美術館の開館はその活性化のチャンスではないかと思うのです。というのも、森美術館は日本の美術館・美術が抱えている問題に関して多くの示唆を与えてくれますし、今後の展覧会のラインナップを見てもそれは意識的になされているように思われます。もっと積極的に語られても良い気がするのですが…。もしかしたら僕の知らないところで語られているのかもしれませんが。

結局何がいいたいのかと言うと、
芦屋市立美術館に絡めて言うのであれば、日本という国、ないしは各、県市町村において美術館が本当に必要であるのか?本当に日本で美術と言うのはリアルなものなのか?という問いに答えることなくして、単に現状の美術館という制度・施設を延命させるという姿勢は単に保守に過ぎないものになってしまうのではないか?という危惧があるのです。少なくとも森美術館はこの問いに答えていると思われます。

僕が、私立美術館と公立美術館を混同して語っていることは理解していますし、それぞれが抱える問題の解決法も異なることもわかります。しかし、鑑賞者からすれば、私立だろうが公立だろうが、それは美術館であるわけだし、しかも、映画館や遊園地、デパート、カラオケ、ボーリング、ライブ、イベント等、時間の過ごし方、文化体験の選択肢のひとつに過ぎないのです。他文化に対する緊張感が悪い意味で欠如しているのが現状ではないでしょうか。

詭弁かなぁ?