判定の記号論

記号学会、判定の記号論@神戸大学へ。撮影等のお手伝いをさせていただきながら、裁判員と判定の話を聞く。今回の話を聞いていてわかったのは、判定を考える際の要諦とは、判定結果の妥当性ではなく、何が判定結果に説得力を与えるのかという点であること。例えばそれは「証言」であったり「科学」であったりする。裁判員制度の事例、およびその成立過程において興味深いのは、それが「素人」、「一般人」、「普通の人」であること。つまり、限られた専門家ではなく、「普通の人」の集合知こそが、判定に説得力を付与すると考えられている。
議論を聞いていて思ったのは、こうしたパラダイムが様々な判定において基準となっているのではないかということ。事業仕訳においても「一般」企業の意識が基準として持ち出されることがままあるし、某知事が「民間企業であれば…」といった発言を行うのもよく聞く。あるいはスポーツ判定の場合も、例えばフィギア・スケートにおいて、眼訊きである審判員の判定ではなく、ネット上における「普通の人」の集合知的判定が肯定的に読まれ反復される。あるいは報道番組などで、ある政治的判断に対する「普通の人」のコメントを報じたりすることも同様に考えることが出来るかもしれない。裁判員制度は、そうした「普通の人」を「市民」と名指すことで、「市民」という主体を析出する、いわば「市民」生成装置なのではないか、というHさんの指摘は「なるほど」と思った。つまり、「普通の人」を基準とする判定の力学は、「普通の人」と「非=普通の人」を仕訳けることでもある。以上、覚書。