現代美術の皮膚

先日の日曜日、国立国際美術館で開催中の展覧会、「現代美術の皮膚」を見てきた。アイデンティティを規定するものとしての皮膚を扱ったもの、あるいは支持体として刻印される場としての皮膚、世界と自己が交流する接触面としての皮膚が焦点化された作品群が並んでいた。
全体的に物凄く「気持ち悪い」し、展覧会の感想を記した様々なブログを見ても不快感が記されている。基本的に「皮膚」というのは上記におけるいずれの場合にしてもあまり意識されない「透明」なものである。それが突如として突きつけられるからこその不快感なのではないだろうか。視覚的な経験である(と考えられている)美術館体験が、突如としてその経験を皮膚感覚へとスライドさせてしまうような力が働いている。それこそインターフェースとしての自らの皮膚が顕在化される。
この展覧会では、図録の論文でも記されているように、虚構に満ちた世界の中での、リアリティやアイデンティティのよりどころとして皮膚を捉えている。しかし、納得しながらも一方でその皮膚自体も技術によって可塑性を備えてきているし、マクルーハン的な意味で拡張していく様もまた同時にある。果たして現在において「皮膚」はアイデンティティやリアリティの拠り所として十分なのだろうか、と疑問にも思う。
ところで国立国際美術館の良いところの一つに、企画展と緩やかに繋がったものとして常設展の作品が選択されているところ。こういう心遣いは本当に素晴らしいと思う。しっかりと東松の写真も展示されていたりして、僕にとって色々考えるきっかけを与えてくれた良い展覧会だった。学会発表では「皮膚」と銘打ちながらも皮膚論には触れていなかった。写真と「皮膚」との関係はもう少し考えてみたい。撮影対象としての皮膚、カメラという世界とのインターフェースとしての皮膚、そして写真そのものの皮膚。