硫黄島からの手紙

ファーストデー千円ということで見てきた。前作「父親たちの星条旗」がアメリカ側から見た硫黄島戦ならば、この映画は日本側から見た硫黄島戦というふれこみ。けれども、実際に見て見れば、アメリカ側から見た「日本側から見た硫黄島戦」だった。先の「父親たちの星条旗」が、星条旗掲揚の写真につきまとってきた意味を解体していく作業だったのだとすれば、今回の映画は、ナショナリスティックな動機によるカミカゼ、ハラキリといったアメリカ側から見た日本軍の異様さを解体していく作業に思える。ただ、その解体作業の先が、家族愛といった、いかにもアメリカ的なヒューマニズムへと帰結していくのには、少々の違和感を感じた。あと、もう一つ違和感を感じるのが、ハリウッド映画が初めて真正面から日本人を描いた!という賛辞。
ところで、「父親たちの星条旗」と並べてみたとき、うまいこと対比性を成していて、はやりこの映画は二つでセットなのだと思わせる。「父親達の星条旗」において「硫黄島(戦場)」は、「現在のアメリカ(祖国)」において想起される過去であるのに対して、「硫黄島からの手紙」では「硫黄島(戦場)」において「過去の祖国」を想起する。それゆえそこでは「祖国=家族」というものが重要なモチーフとなる。西郷(二宮)パン屋を初めとする兵士にとって「過去の祖国」は日本である。一方で聡明さや国際的な感覚を持つ人物として描かれる栗林やバロン西にとって「過去の祖国」とはアメリカである。バロン西はロス五輪で金メダルを獲得しており、アメリカ人の友人を自宅に招いたりもしている。また栗林はアメリカに駐在していたという職歴を持つ。彼らは戦前に渡米でき英語も堪能なエリートであり、戦場では将官クラスである。一方で「父親達の星条旗」で「英雄」となる三人は一兵士に過ぎない。「父親達の星条旗」で描かれる顔も無く不気味な存在に過ぎない日本兵は、「硫黄島からの手紙」において、アメリカ兵と同じ家族を思う人間であると描かれる。逆に、「硫黄島からの手紙」では鬼畜米英と言われたアメリカ兵にも家族がいることが印象的に描かれる。このような対比を丹念に描くことによって、日米・敵味方といった関係性、「英雄」や「鬼畜米英」といった象徴性を個人へと解体していく。その結果、敵味方という関係を構築し、「英雄」を無理やり作り出し、「鬼畜米英」と相手をみなしてしまう「戦争」が非常に虚しいものに見えてくる。砂と岩だらけの硫黄島がその虚しさに拍車をかけてくれる。
この硫黄島二部作は、どちらも単に過去の戦争を再現しているのではなく、「父親達」の戦場から現在へ届けられた「手紙」をどう読むのかという問題意識が強い。
id:anutpanna:20061212#p1さんのところで、栗林の万歳ついての考察があって面白い。もうちょっと具体的な細部をじっくり見てみたい。DVDがでるのを待とっと。
今年の夏、『夕凪の街桜の国 (Action comics)』が今年の夏公開で映画化されるらしい。非常に楽しみ。

夕凪の街桜の国 (Action comics)

夕凪の街桜の国 (Action comics)