妻有旅行記(1)

妻有トリエンナーレ 大地の芸術祭 8月30日

妻有は、一説によれば、どん詰まりの「つまり」が語源となっているそうだ。レンタカーで京都を出発し、日本海経由でその「つまり」へと向かう。サービスエリア、パーキングエリアで休憩を挟みつつ、高速を走る。高速を下り、入り組んだ山道を進み、トンネルを抜けると、一つ目の作品が迎えてくれた。

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  • 124、カマリア・カイコネン、≪明日に架ける橋のように≫

古着を集め、それらを吊橋のように渓谷を渡らせるという、まさに「大地の芸術祭」というべき非常に大規模な作品。手前の土色の古着から、向こう岸へと向かうにつれて赤、そして青へと服の色がグラデーションを描き変化していくように並べられている。土から生まれた衣服が空へと帰っていくような、開放感がある。けれども、その≪橋≫から少し離れた所には、実際につり橋がかかっており、その橋の存在が、また別の観点から作品を見ること可能にしている。吊橋から少し離れた箇所に架けられた≪橋≫を眺めると、個々の衣服は完全に色に還元され、グラデーションの作り出す色彩の妙味が前面に押し出される。けれども一方で、不安定にゆれる吊橋に観者が立ち作品を見ることで、綱引きのように張り詰めた≪橋≫の緊張感にもまた、もう一方で気づかされるのである。このような、「美しさ」と「緊張感」のような両面性は、その吊橋を渡った所に設置された作品にも共通して見ることが出来る。

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  • 123、関直美、≪ようこそ仙田農村公園へ≫

重量感を感じさせる一方で、先鋭化した台座部分によって軽妙さもまた感じさせる。肥沃な土壌に育まれた自然と、その一方で、その台座は人工的な銀板で覆われ、とがった台座が厳しさを示す。カタログを見る限り、「人口」と「自然」の、「豊かさ」と「厳しさ」の対比、あるいは共存はこれらの作品以外でも、多くの作品でテーマとされていた。けれども、そのような二項対立的な図式は非常に都会的な視点によるものなのではないだろうか。そのそも街自体が自然を切り開いて作られた街だし、多くの作家がテーマとしている田んぼもまた人工的なものの一つなのだから。むしろそのような単純な二項対立を崩すような視点があっても良かったのではないか。もしかしたら僕らが見ていないだけなのかもしれないけれど。
一通り、これら二つの作品を観賞、散策したのち、予約した宿がある十日町に向かう。道中、ところどころ、山肌がえぐられており、中越地震の傷跡が生々しく顕にされていた。十日町の中心部には日本一の大河、信濃川が流れる。稲作と着物産業が産業の中心を担う十日町も過疎地域に指定されているようだ。そこに先の地震が拍車をかけた。妻有トリエンナーレはその流れに抗うことも一つの役割として期待されている。
宿に着き荷物を置いた後、宿近辺の作品をいくつか見て回ったのだが、作品公開時間である五時半をすでに回ってしまっており、観賞は不可能だった。夕食には、有名な「へぎ蕎麦」「へぎうどん」を食す。つなぎに海苔を使ったへぎ蕎麦は、非常にこしが強く、美味。食後は地元の温泉につかり、疲れをほぐす。