東京周遊記

8月22日〜25日のあいだ、三泊四日で東京に行ってきました。移動日を除けば実質二日の東京滞在。いくつか展覧会を見てきたので、以下はそのメモ。また、東京ではid:BunMayくん、id:totomi_2さんを始め、色々ありがとうございました。以前からブログ拝見させていただいてた方も幾人かいて、やっぱりオフ会。

東京国立近代美術館・モダン・パラダイス展

大原美術館と東近美のコレクションを、「光あれ」「まさぐる手・もだえる空間」「心のかたち」「夢かうつつか」「楽園(パラダイス)へ」という五つのセクションに分けて展示するもの。制作年代、東西を問わず、「近代」をキーワードとし、作品を組み合わせて展示されていた。テイト・モダン的とでもいえるだろう展示方式。様々な作品を一挙に見ることはそれだけで楽しく、大原と東近美のコレクションの充実ぶりを垣間見れた。ただ、テイト・モダンのような、空間全体が二人の作家によってせめぎあうようなものではなかったような気がする。身も蓋も無い言い方かもしれないが、こういった展示の場合「近代」と区切ってしまわない方がダイナミックな展示に出来るのではないだろうか。

靖国神社遊就館

戦争表象に近いことをやっていること、そして先の美術史学会で聞いた発表で、靖国の大村益次郎像が話題になっていたこともあって、一度足を運んでみたいと思っていた。展示は、写真、映像を駆使し非常に工夫が凝らしてあった。遊就館で一番圧巻だったのが、しばしばニュースでも取り上げられる、タイル状に戦争で命を落とされた方の遺影写真を並べたスペース。まさにボルタンスキー。また、国を思い命を賭したということで、安政の大獄で処刑された吉田松陰や橋本佐内の肖像も組み込まれていたのが印象的。その文脈に大村ももちろん関ってくるだろう。吉田松陰無くして大村が歴史の表舞台に立つことは無かったはずなわけだし。

渋谷松涛美術館・ポーランド写真の100年展

1920年代から現代までのポーランド写真の歩みを概観する展覧会。思っていた以上に面白い展覧会だった。ピクトリアリズム→ストレート写真/リアリズム写真→現代アートという大まかな流れは、世界的な写真史と足並みをそろえているととりあえずはいえると思う。けれども一方で、ナチスドイツによるホロコースト、あるいはソ連の影響下における共産主義による自由の抑圧といった不安定な状況がその背後にはある。それと関係するのかもしれないのだが、リアリズム的、ジャーナリスティックな写真はそれほど多く展示されてはおらず、コンセプチュアルな作品、特に写真のインデックス性に保証された真正性を揶揄するような作品が多かったのが印象的。

東京都写真美術館・ポストデジグラフィ展

「デジタル」「アナログ」の二項対立ではない「デジグラフィ」とは何か、という問題意識が前提にあるようだが、実際に展示を見てみると、「(ポスト)デジグラフィ」とあえて名づける必要は無いような気がした。むしろ、デジタル技術の発展による、視覚表現のあり方、あるいは視覚体験のあり方の見本市といった様相を成しており、その意味では面白かった。

東京都写真美術館・世界報道写真50周年記念展:絶望と希望の半世紀

LIFEを初めとする写真ジャーナリズムを支えてきた雑誌を時代順に追うことで、報道写真、雑誌ジャーナリズムがどのように変化してきたかを辿る展覧会。現在のジャーナリズムは雑誌を媒体とするこは少なくなっているが、かつての盛り上がりを垣間見ることが出来る。「人類の歴史」といったコメモレーションを強化していく際に、テレビと同様に、写真雑誌が果たした役割もまた大きなものだったのだろう。

岡本太郎の壁画・≪明日の神話

あいにくの雨だったが、見ることが出来た。以前、≪明日の神話≫の公開がテレビで特集され、まさに神話化されていったのだが、現地でもまた、同テレビ局内に展示され、そのテレビ局が催している夏のイベントの一環として公開されていた。はっきり言って、≪明日の神話≫の巨大さも、その色彩も、壁画を巡る環境――派手さ、喧騒、妙にテンションの高いイベントスタッフ――の中では沈んでいた。上手いたとえではないかもしれないけれども、ニューヨークにつれてこられて見世物にされたキング・コングのような、そんな印象を受けた。

原美術館束芋/ヨロヨロン展

束芋さんの作品は、以前KPOで、できやよいとの展覧会等でいくつか作品を見ていたので、今回は新作を中心に。浮世絵を髣髴とさせる色使い――実際テクスチャーは浮世絵からのカットを貼り付けたもの――で現代社会を残酷ではあるがユーモラスに風刺する、といった束芋作品の評価が一般的に成されている。しかし、束芋作品の最たる特徴は、一望不可能性ではないか。空間的に映像を投影する作品は画面全体を一望することは出来ない。新作≪真夜中の海≫もやはりそうで、一部にスポットライトが当てられていたり、あるいは壁面の穴から覗き込むといった観賞方法を採用することで、観者が全体を見渡すことを束芋作品は周到に拒む。一方で、手書きで作成されたアニメーションは荒く、画面全体が波打っているかのように小刻みに震え続ける。何かに焦点をあわせると、その外で何かが動く。その居心地の悪さこそが束芋的なものなのではないだろうか。

森美術館・アフリカリミックス展

世界を巡回する現代アフリカ美術の展覧会。「アイデンティティと歴史」「身体と魂」「都市と大地」といったセクションに分類し、現代のアフリカ現代美術を大々的に紹介している。非常に沢山の作品が展示されており見ごたえがあった。一番入り口の作品が端的に示しているのだが、多くの作家がテーマにしているのが、「柵」だった。それは白人と黒人の間にあるものであり、あるいは、富と貧しさ、プリミティブと近代、都市と大地、etc....そういった「柵」は時にユーモラスに、時に直情的に、時にラディカルに扱われる。どういうアプローチをとっていようとも、やはりそれは深刻である。しかし、その深刻さは六本木ヒルズという場所、あるいは、美術館の下で行われる、アフリカを楽しもう的イベントがなされていることなどが視野に入ったとたんに簡単に崩れ落ちてしまう。そういう意味でも深刻である。