視聴文研Vol.4

とりあえず、発表三本の感想を。

バルセロナ・パヴィリオン

歴史的推移や社会的情勢といった状況も大切だと思うけれども、質疑でも指摘されていた通り、結論から始められるべきものだと思う。なぜイオニア式の列柱なのか、ドーリア式では駄目だったのか?良かったのか。なぜ像を置かなければいけないのか?それが研究の始点ではないかな。

エグルストンと色

写真における「自然さ」というものの「不自然さ」というものは、写真研究に関る以上常に問題だと思う。おそらくエグルストンの「自然さ」というものは、「いま・ここ」でエグルストンという「個人」が眺めた、南部の日常のドキュメントであることを証明していて、それは、フリードランダー的な写真家の身体によって保障されている。そこにはフリードランダーやロバート・フランクによってなされてきたアメリカのストレート写真、ドキュメンタリーの系譜の中にカラー写真を接続しようというシャーカフスキーの政治的な目論見が明らかに透けて見える。僕としては、その時に召還されたのが南部であったことというのが面白いのだけど。

アーカイブ論

蒐集やアーカイブという概念は面白いとは思うのだけれど、枠組みが大きすぎるので中に何を入れてどう仕切りを入れるのかというのが難しいと思う。今で言うと、Flickrとかってどうなるんだろうか。*1際限なく世界規模で日々増殖する映像のアーカイブ*2。例えば、Flickr: Photos & video from everyone in Flickrでは、最も最近にアップロードされた写真が閲覧出来るのだけれども、リロードするたびに十数枚の写真が上げられていることがわかる。Flickrは写真共有サービスであると同時に、むしろ画像保管庫として利用されていることが多いので、私的な写真、まさに「個人」が眺めた日常がアップされている。全体像なんてとても把握できないけれども、想像すると物凄く不気味。


自分の発表は、東松の初期写真からピクトリアルな性質を読み取り、その性質が「占領」という現実とぶつかる時に炸裂するとかなんとかという話。今年の自分なりの課題が作品分析なので、その一環として。まだまだ不十分ですが。id:seventh-drunkerくんから、東松絶対論の印象を受けると指摘を受けました。そういう印象を与えてしまったのは完全に僕の責任なのですが、僕自身としてはむしろ逆だったりします。

*1:参考:[http://www.flickr.com/photos/74458469@N00/:title]

*2:ちなみに無料会員でも毎月20MBの容量がもらえる。