太郎と敏子

岡本太郎の「明日への神話」の神話化と、太郎&敏子の神話の再生産のプロセスを見る。「芸術は爆発だ」から、「芸術は呪術だ」へと向かうキャッチフレーズのアップデートといっても良い。結局は「爆発」も「呪術」も「メキシコ」も、バタイユ的な「対極主義」の実践として提示されたもので、片方のみをクローズアップしたところで、何の対極として提示されているのかに触れないと意味が無い。それは例えば「近代」であり「メディア」であり「知」であり「意味」であり、それこそ「進歩と調和」だった。だからこそ「太陽の塔」は天井を穿つほどの巨大さである必要があった。


そこらへんの話は椹木さんが詳しく論じているところなのだけれど、そこで登場するのが、卒論で取り上げたタイガー立石。あるいは立石紘一。あるいは立石大河亜。岡本の「対極主義」は、「ナンセンス」として立石に引き継がれる。
ところで、立石にしても、岡本にしても、そこに原爆というものは大きなテーマとなっている気がする。立石は初期の作品において、きのこ雲のモチーフは頻繁に画面に現れるし、岡本の「明日への神話」も原爆がテーマである。そして「明日への神話」が描かれ始めたのは1967年で、その前年には東松が「<11時02分>NAGASAKI」を出版している。将来的には、そこで何かが繋がってくれればと思う。大きく取れば戦後日本(大きすぎる)。そろそろタイガー立石にも手を付けていこうかな。