ナルニア

やっとナルニアを見に行く。本当なら二条とかMOVIX京都とかに行って昔の同僚と会いたかったけど、黄砂と風と観光客で凄いことになりそうだったので地元TOHO CINEMAS高槻で。ガラガラでした。映画館そのものが。
ナルニア国物語、とくに第一作「ライオンと魔女」はキリスト教の物語である。「最後の晩餐(於ビーバー夫婦の家)」「ユダ(エドマンド)の裏切り」「ゴルゴダの丘(石舞台)の処刑」も「(アスランの)復活」もきっちり出てくる。映画化され物語が短くされることで、この点が妙に前面に押し出されてしまっていた。こういう説教臭くを覆い隠そうと兄弟喧嘩とか兄弟愛とかを強調していたけれども、原作にあった素朴で抒情的な雰囲気という物が薄れていたのが少し残念。
また、ナルニア物語の構造上の特徴を考えれば、何故街灯があんなところに立っているのか、とかあの衣装ダンスはいったいどうやって出来たのかとか、スーザンがサンタクロースにもらった角笛ってあれだけ?とかそういうところにも注意をひきつけた方が興行的にも期待できるのにと勝手に考えていたり。
ところで映像やデザインに関して言えば、ポーリン・ベインズの挿絵を逸脱すること無く、思ったよりも原作を大切にはしている。「巨人ごろごろ八郎太」とかがさらりと登場したり。なによりティルダ・スウィントン演じる「白い魔女」ことジェイディスが素晴らしく魅力的。もしこのままクロニクルの映画化が続くのであれば、ジェイディスはロンドンで大暴れしてくれるはず。それは凄く楽しみ。
ただ、このままシリーズが映画化され、改めてナルニア国物語が現代において消費されることを考えると色々心配事もある。というのも、今回の「ライオンと魔女」では舞台はナルニアで完結していたが、別の物語では、ナルニアと対立する国として「タシバーン」というナルニアとは様相を異にする国が出てくる。この国がトルコとかサウジアラビアとかのイスラム圏を明らかにモチーフとしている。まさにオリエンタリズムといっていいこういう側面をどのように処理するのか。また、「最後の戦い」でペベンシー兄弟は角笛によって召還されるのだけれど、お年頃になったスーザンだけはそんなんよりも化粧とか合コン(ま、パーティーね)とかに興味が移っててナルニアに来なかったりする。ナルニアの最後に「女」は阻害されてしまう。冒険は「男」のものであり、そこに「女」はいらない。こういう「現代」ならでは「問題」をどう処理するのだろうか。
真珠の耳飾の少女」で意地悪娘を演じていたアナ・ポップルウェルをスーザンに配役した理由はその布石か、とか意地悪に考えてしまう。それにしてもルーシーの眉毛の細さと大人びた佇まいの方が白い魔女よりもよっぽど怖い。

ライオンと魔女―ナルニア国ものがたり〈1〉 (岩波少年文庫)

ライオンと魔女―ナルニア国ものがたり〈1〉 (岩波少年文庫)