長崎

長崎「11:02」1945年8月9日 (フォト・ミュゼ)

長崎「11:02」1945年8月9日 (フォト・ミュゼ)


先日、地元の図書館で借りてきた。かれはこの写真集を含め三冊の「ナガサキ」に関する写真集を発行している。発行のたびに収録される写真は更新され、新たに撮影された写真が含まれていく。彼のナガサキの写真は、土門のヒロシマ写真とは異なり、そこに原爆の痕跡を読み取ることが不可能な写真が多い。土門は、「悲しみ」「痛み」という言葉を体現したような、患者を中心にモチーフを選択するが、東松はそうではない。
被爆者の皮膚、ケロイドといういわゆる原爆の痕跡、写真的なものを撮影し、そしてそれらと共に何気ないナガサキの風景を撮影する。この両者が同じシークエンスに並べられることにより、何気ない「現在」のナガサキに潜む不可視の「原爆の痕跡」の読み取りを読者に強要してくる。
しかし、モチーフのレベル以外に、他の差異を挙げるなら、土門の「絶対非演出の絶対スナップ」「モチーフとカメラの直結」というテーゼ、それがどれだけ体言されているのかは別問題として、土門の写真に土門はいない。しかし、東松の写真に東松は強烈な存在感を持ってそこにたち現れてくる。世界と写真家の出会いの痕跡としての写真。漠然と考えているのだけれども、
明るい部屋の謎―写真と無意識

明るい部屋の謎―写真と無意識


がそういう意味では参考になるかもしれない。ただ、精神分析的な切り口は、「原光景」としての「廃墟」というような彼自身の語りにひきづられてしまいそうな気がしないでもない。